明治31年(1898年)、金沢にようやく鉄道が到達した。その後、大正期に入ると、金沢は北陸の中心都市として鉄道網に組み込まれ、外国人旅行者が内陸部の城下町を訪れることも現実的になった。鉄道を経由して来日した外国人たちが東海道を南北に往来するだけでなく、日本海側の都市へも足を延ばす事例が生まれた時代である。
本稿では、1920年代前半(大正末期)に金沢を訪れたアメリカ人教育学者 Harold Waldstein Foght の旅行記『Unfathomed Japan』(Macmillan, 1928年)の金沢・兼六園に関する記述を中心に紹介する。同書は、外国人の目に映った大正期の金沢を知る上で貴重な一次資料である。
* サムネイルの写真はFoghtが金沢を訪れた大正中期〜昭和の金沢・兼六園眺望の写真。絵葉書の所有は小西裕太

著者について――Harold Waldstein Foght(1869–1954)
Harold Waldstein Foght は、1869年にノルウェーのフレドリクスハル(現ハルデン)に生まれ、1888年に両親とともに渡米してネブラスカ州に定住した。ミドルネームの「Waldstein」にも、スカンジナビア系の出自がにじんでいる。


1901年にイリノイ州ロックアイランドのAugustana Collegeで修士号(A.M.)を取得。その修士論文は「The Norse Discovery of America」(ノース人によるアメリカ発見)であり、みずからの北欧的ルーツへの関心が学問にも表れていた。ネブラスカ州で地方史にも関心を持ち、1906年には同州ループ川流域の地方史『The Trail of the Loup』を著している。
その後、米国教育局(Bureau of Education)の農村教育専門家(specialist in rural education)として活躍。1913年にはデンマークに派遣されてフォルケホイスコーレ(国民高等学校)を調査し、1915年に『Rural Denmark and Its Schools』を刊行した。農村教育の国際比較を専門とし、ミネソタ・ミズーリ・ワシントン各州およびカナダ・サスカチュワン州の教育調査報告書も手がけている。
1927年、サウスダコタ州アバディーンの Northern Normal and Industrial School(北部師範実業学校)の学長からウィチタ大学(現ウィチタ州立大学)の学長に就任(年俸8,000ドル)。『Unfathomed Japan』は、まさに学長就任翌年の1928年にMacmillan社から刊行された(定価5ドル)。1933年7月に理事会との対立を経て辞表を提出し、1934年2月1日付で退任。その後カリフォルニアを経てニューメキシコ州のナバホ族職業学校の校長に就任し、1930年代後半にミネソタ州マウンドの自宅に引退。晩年はミネアポリスの老人ホームに約1年間入居し、1954年4月下旬に同地にて約85歳で死去した。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1869 | ノルウェー・フレドリクスハル(現ハルデン)に生まれる |
| 1888 | 両親とともに渡米、ネブラスカ州に定住 |
| 1901 | Augustana College で修士号取得 |
| 1906 | 『The Trail of the Loup』刊行 |
| 1913 | デンマーク派遣、フォルケホイスコーレ調査 |
| 1915 | 『Rural Denmark and Its Schools』刊行 |
| 1920年代前半 | 大日本学術協会の招きで来日、金沢を訪問 |
| 1927 | Northern Normal and Industrial School(アバディーン)学長からウィチタ大学学長に就任 |
| 1928 | 『Unfathomed Japan』(Macmillan)刊行 |
| 1933年7月 | 辞表提出(退任は1934年2月1日付) |
| 1954 | ミネアポリスの老人ホームにて死去(享年約85歳) |
本書は、「National Association for the Encouragement of Learning」(大日本学術協会に相当する団体)の招きによる日本の教育事情視察の記録である。テキスト中の「Midzuno」は通訳兼案内役の日本人、「Oku-san」はFoght夫人の Alice Mabel Robbins Foght のこと。天長節(10月31日)の記述と、脚注の「* Died, 1926.」から、訪日は大正天皇存命中――おそらく1920年代前半――と推定される。農村教育の国際比較を生業としていたFoght にとって、日本の地方教育制度の視察は本業の延長線上にあり、金沢・兼六園の記述はいわば視察の「余録」として記されたものだが、その表現は鮮明で紹介すべきと思ったので今回紹介することとした。
日本海沿岸から金沢へ――到着の記述
新潟を出発したFoght 一行は、日本海沿いを11時間かけて南下し、金沢に到着した。車窓から見た日本海の描写は詩的ですらある。
日が暮れる頃、我々の一行は今回の目的地である金沢に到着した。人口十三万の魅力的な街で、主にこの地で製造される美しい九谷焼と、極めて精巧な磁器や陶器を売る多数の魅力的な小店で知られている。
金沢を「人口十三万の魅力的な街」と表現し、まず九谷焼と陶磁器の産地として紹介していることが注目される。当時の金沢が、外国人の目に「工芸の街」として映っていたことがわかる。
続けて Foght は、金沢を擁する石川県と白山に触れる。
金沢を県庁所在地とする石川県は、日本の歴史において名高い。この県と近隣県を見下ろすようにそびえるのが、名高き白山(Haku-san)、すなわちモンブラン(Mount Blanc)である。優美な雪をいただいた円錐形の山で、標高は実に八千七百フィート【約二千六百五十メートル】に達する。白山は日本海の船乗りたちにとって、メキシコ沿岸の船乗りにとってのオリサバ山のような存在――美しく鼓舞的な目印――であるという。白山は、日本で最も高く美しい山の一つに数えられる。
白山をアルプスのモンブランやメキシコのオリサバ山に例えるあたりに、国際的な視野を持つ教育者らしい比較の視点がある。
前田利家と野田山墓地――歴史案内の記録
金沢の歴史案内として、Foght が最初に語るのは前田利家と金沢城、そして野田山墓地である。案内役のMidzuno が金沢の歴史をしっかりと説明していたことがうかがえる。
金沢は十五世紀に遡り、名高き前田利家(Maeda Toshiie)によって開かれた。彼の古い封建の城は、堅固な花崗岩の石垣と深い堀に囲まれて今も立ち、街を見下ろしている。利家は強大な封建領主であり、偉大なる将軍秀吉(Hideyoshi)の下で複数の国を領有していた。利家とその子孫たちは、街の近くの大きな山の斜面の頂に、大きな墳墓に埋葬されている。風雨にさらされた大鳥居が飾り、大きな壁と柵で、その下の斜面に眠る数千の忠実な家臣たちから隔てられている。
ここで案内されているのは野田山墓地である。前田家歴代藩主の墓所と家臣団の墓地が同一の山の斜面に広がるこの場所は、当時から外国人向けの観光コースに組み込まれていたことがわかる。Foght の野田山に対する印象は、金沢における記述の中で最も強烈なものであった。
これは私が目にした中で最大の墓地であった。そして我々全員に強烈な印象を残した――苔に覆われ、崩れかけた墓石がびっしりと並び、その多くは五百年、六百年の時を経ている――侍や貴族、芸者や役者、平凡な百姓や商人の墓。そしてそれらに混じって、奇妙なほどあふれんばかりに、神社や「神棚」、大仏や小さな神々が立っている。それら全ての上に、そびえ立つ杉、芳香の檜、松の見事な森が茂り、そのはるか上には素晴らしい青空が広がり、その中を見上げると、大きな日本陸軍の飛行機が白い機体に両翼に大きな赤い日の丸をつけて舞い上がっていた。そしてこれら全ての上に、仏教徒もキリスト教徒も等しく崇める、同じ神が君臨しているのである。
苔むした墓石の重なりと、その上空を飛ぶ陸軍機という対比は、大正末期という時代の空気をリアルに伝える。古代と近代が交錯するこの光景に、Foght は宗教的な普遍性すら見出している。野田山が「最大の墓地」という表現は誇張ではなく、前田百万石の城下に築かれた歴史の集積を、初めて訪れた外国人の目が正直に捉えたものだろう。
兼六園――「六つの要素」について
野田山の次に案内されたのが兼六園である。Foght は兼六園を「日本三景」の一つとして紹介し、その名の由来まで正確に記している。
日本には比類なき美しさを誇る公園が数多くある。一般的な合意により、そのうち三つが「日本三景」として選ばれている。金沢の兼六園(Kenroku-En)、すなわち「六つの要素を兼ね備えた庭園」はその一つである。
ここで Foght が「日本三景」として挙げているのは、現在一般に知られる松島・天橋立・宮島の「日本三景」ではなく、兼六園・偕楽園・後楽園の「日本三名園」である。大正期の外国人向け案内では「Three Greatest Sights」として三名園が紹介されていたことが確認できる。
特筆すべきは、「兼六」の命名者についての記述である。
金沢の公園【訳注:兼六園のこと】は非常に古い時代に遡り、その名は封建時代の著名な政治家・学者である Rakau Shigawa【訳注:白河楽翁、すなわち松平定信のこと】によって名づけられた。「Ken」は「備える」を意味し、「Roku」は「六」を意味する。すなわち、この公園は、東洋の最良の基準によって完璧な庭園を作るのに必要とされる六つの要素をすべて備えているとされる。
「Rakau Shigawa」は「白河楽翁」、すなわち老中・松平定信のことである。兼六という名を定信が命名したという由来まで、案内役は外国人客に対して丁寧に説明していたことがわかる。大正期においても、兼六園の命名の経緯が観光案内の重要な要素として位置づけられていたことは興味深い。
六つの要素については、Foght はこう列挙している。
- 広大さ(grandness)
- 幽邃(retired quietude)
- 人力(human effort)
- 蒼古(antiquity)
- 水泉(artificial ponds and fountains)
- 眺望(grand outlook)
現在の兼六園でも同じ六徳が解説されており、大正期においてもすでにこれが定型的な説明として外国人に伝えられていたことがわかる。
眺望の描写――かつて日本海が見えた兼六園
Foght が六つの要素の中で最も強く反応したのは「眺望」であった。
眺望の壮大さにおいては、言葉では表現しきれない。高台に位置し、山の谷間と海岸平野の絶景が広がり、その向こうには打ち寄せる海がちらつく。人の力においては、何も望むものはない。蓮の池、湧き出る噴水、風変わりな田舎の橋、塔、樹木と花々、人目につかぬ滝や洞窟がある。
「その向こうには打ち寄せる海がちらつく」――これは現代の兼六園からは想像しにくい景観である。大正期の兼六園周辺は現在ほど市街地が密集しておらず、園内の高台からは金沢平野の向こうに日本海を遠望できたと考えられる。周囲の建物や植生の成長によって現在では失われたこの眺望が、当時の外国人客にとっては最大の見どころであったことが、この記述から読み取れる。
Foght は最終的に、簡潔にして力強い一文で兼六園への評価を結んでいる。
我々は兼六園を、言葉では表現できないほど素晴らしいと讃え、それ以上は言わぬこととした。
過剰な修辞を排したこの締め括りに、かえって深い感銘が伝わってくる。
固有名詞の表記から見えること
本書の記述で興味深いのは、固有名詞の表記の正確さにばらつきがある点である。兼六園は「Kenroku-En」と正確に表記されているのに対し、水戸の偕楽園は「Kayroku-En」、岡山の後楽園は「Koroku-En」と誤記されている。
兼六園の表記のみが正確である理由として、いくつかの可能性が考えられる。案内役が特に丁寧に説明した、あるいは Foght 自身が最も印象深く記憶したため、メモも正確に取られた――いずれにしても、兼六園が他の二園に比べて格別の印象を与えた結果と読むことができる。「六つの要素」という具体的な説明が記憶の定着を助けたことも一因かもしれない。
一次資料としての価値
明治31年(1898年)の鉄道開通から約25年を経た大正末期、金沢は国内外の旅行者を迎え入れる観光地としての体制を整えつつあった。外国人向けの観光コースとして、金沢城・野田山墓地・兼六園という動線はすでに確立していたことが、Foght の記述から確認できる。
案内役は前田利家の歴史、野田山の意義、兼六の意味、そして松平定信による命名という情報(今は異なった情報となっているが)を、外国人客に対して体系的に説明していた。現代のインバウンド観光案内と比較しても遜色のない内容であり、大正期の金沢における外国人受け入れの水準の高さがうかがえる。
農村教育の国際比較という本業の視察に訪れた一人のアメリカ人教育者が、余暇に金沢の庭園と墓地を歩いて書き留めた記録は、100年後の今日、大正期の金沢を知るための貴重な一次資料として私たちの前に残されている。
参考文献
著者の経歴・生没年・ウィチタ大学学長在任に関する伝記的事実は、以下の資料に基づく。
- Wichita State University Libraries, Department of Special Collections, Tihen Notes(ウィチタ地域新聞記事データベース), Subject: Foght, Harold W. — Wichita Beacon 1927年7月5日・1928年9月11日・1933年7月8日、Wichita Eagle 1927年9月2日・1933年7月8日・1934年4月20日・1954年4月30日各記事。URL
- Wichita State University, WSU Past Presidents(歴代学長一覧). URL
- University of Pennsylvania Libraries, The Online Books Page — H. W. Foght 著作一覧(HathiTrust デジタル版リンク付き). URL