1892年(明治25年)、一人の軍人が快挙を成し遂げた。

福島安正中佐によるシベリア単騎横断。日本中が沸いた、この男の名は歴史に刻まれた。

だが、その23年も前に――日本という国がようやく産声を上げたばかりの、あの混沌の時代に――たった一人でシベリアを横断した男がいた。

金沢の町医者の息子、嵯峨寿安(さが じゅあん)

喝采はなかった。記録も残さなかった。彼の「8,000キロの旅」は、ほとんどの日本人が知らないまま、歴史の底に沈んでいる。

なぜ彼は旅に出たのか。なぜ誰にも語らなかったのか。金沢に縁を持つ者として、この人物のことを伝えずにはいられない。

岩瀬の血脈――「情報の交差点」で育った嗅覚

嵯峨寿安が生まれたのは1840年(天保11年)。金沢・十三間町で眼科医を営む父のもとで、次男として育った。

ただ、彼の感受性の原点は、父祖の地である富山・岩瀬にあったと私は思う。

祖父は岩瀬新川町で伝馬屋「大村屋」を営んでいた。岩瀬といえば、北前船交易の拠点だ。上方の文化、蝦夷地の物産、そしてその先の異国の断片的な情報が、絶えず流れ込んでくる土地だった。

物流の最前線に生きる一族の血は、寿安に一つの確信を植え付けた。

水平線の向こうには、伝説ではなく、実体としての異国がある。

この確信が、後に彼をシベリアへ駆り立てることになる。

蘭学と漢学の両輪

16歳(1855年)になると、寿安は金沢藩校「壮猶館」で黒川良安に師事し、蘭学(西洋医学)を学び始めた。同時に、安井息軒門下の井口済から漢籍も学んでいる。

科学の合理性を追う蘭学と、人間の倫理や美学を説く漢学。

この二つの知が車の両輪となって、後に極寒のシベリアで孤独に耐え抜く彼の精神を支えることになる。

大村益次郎の愛弟子

1857年(安政4年)、18歳の寿安は江戸へ向かった。

叩いた門は、後に「日本近代軍制の父」と称される村田蔵六(大村益次郎)の私塾「鳩居堂」。

寿安の吸収力は群を抜いていた。オランダ語・医学・西洋兵学を貪るように学び、ついには第二代塾頭の地位に就く。

師・大村益次郎は、合理主義の権化のような人物だった。寿安はここで「時代を先読みし、技術を国力に変える」という前衛意識を徹底的に叩き込まれた。

彼は自らを「草莽布衣児(そうもうふいじ)」、つまり位のない民間の若者と定義した。士族ではない町医者の息子という出自に、彼は複雑な思いを抱いていた。だがそれは同時に、「実力さえあれば世界を動かせる」という強烈な自負の裏返しでもあった。

函館のニコライ――運命の出会い

1866年(慶応2年)、27歳の寿安は箱館(函館)へ渡る。

そこで出会ったのが、後に東京・御茶ノ水の「ニコライ堂」を建立するロシア人司祭、ニコライ・カサイキンだった。

二人は互いの言語を教え合う「交換教授」の関係を結ぶ。

この時の寿安の集中ぶりは、正直に言って「狂気」と呼ぶほかない。

身なりを一切構わず、髭も髪も伸ばし放題。昼夜の区別なくロシア語の原典に食らいつく。日本語を教える際には、一語一句の妥当性をめぐってニコライと激論を交わす。

これは語学習得ではなかった。ロシアという巨大な隣国の思考回路を、言葉を通して完全に解剖しようとしていたのだ。

シベリア8,000キロ――前人未到の孤独な行軍

1869年(明治2年)、金沢藩よりロシア留学の正式決定が下りた。藩には、ニコライエフスクとの貿易路を独自に切り開こうという密かな意図があったとされる。

そして1871年(明治4年)5月21日、寿安は函館からロシア船「エルマーカ号」でウラジオストクへ渡った。

ここから、近代日本人が誰も経験したことのない旅が始まった。

区間移動手段出来事
函館 → ウラジオストクロシア船「エルマーカ号」5月21日出発
ウラジオストク → ストレチェンスク船を乗り継ぎ、アムール川を遡上ニコライエフスク経由
ストレチェンスク → ネルチンスク馬車(タランタス)ここで200円の旅行用馬車を購入
チタ → イルクーツク馬車(駅伝制)好条件時は一昼夜に約240km進む
イルクーツク――最大のトラブル:荷物検査で箱をこじ開けられ、詳細な日記を失う
オームスク → クラスノヤルスク馬車雪の中、困難な移動
チューメン → エカテリンブルク馬車ウラル山脈方面へ
ペルミ → カザン橇(そり)旅行用馬車を50円で売却、橇に乗り換え
ニージネ・ノヴゴロド → モスクワ鉄道
モスクワ → ペテルブルグ鉄道明治5年(1872年)到着

総移動距離、約8,000キロメートル

軍の組織も、近代的な通信手段も、補給もない。あるのはロシア語と、自分の足と、剥き出しの意志だけ。福島安正が英雄になる23年前に、この男はそれをやっていた。

帝都での絶望――廃藩置県と根無し草

1872年(明治5年)、サンクトペテルブルグに到着した寿安を待っていたのは、称賛ではなかった。

彼がシベリアを横断している最中、日本では廃藩置県(明治4年7月)が断行されていた。

自分を留学させた加賀藩は、消えていた。

資金は打ち切られ、身分も後ろ盾もない。「故郷なし、資金なし、あるのは異国の冷たい風のみ」という状況に叩き落とされた。

それでも寿安は帰国しなかった。

現地の医学校に通い、知識人たちと議論を戦わせ、極貧のまま3年間を独力で生き抜いた。この時期の彼の孤独と、それでも燃え続けた知識への渇望こそが、嵯峨寿安という人間の真骨頂だったと思う。

岩倉使節団との邂逅――埋められない溝

1873年(明治6年)4月、ペテルブルグで寿安は岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らの岩倉遣欧使節団と遭遇する。

新政府の高官たちは、国家の威信を背負い、きらびやかに現れた。

対して寿安は、根無し草の一介の留学生だった。

この場面に、私は一種の残酷さを感じる。

伊藤博文が寿安の知人に「あの男の識力はどの程度か」と尋ねたとき、知人は「議論になれば自説を絶対に譲らない剛情な男だ」と答えた。伊藤はこう返したという。

「そのような頑固さがあるからこそ、このような困難な旅行をしているのだ」

嘲笑だった。

寿安が命がけで学んだロシア語とロシア事情は、当時の明治政府が必要としていた「実学」――英・仏・独の科学技術や法制度――には当てはまらなかった。彼の体験を活かす場を、新政府のシステムは用意しなかった。

アウトサイダーの後半生

1874年(明治7年)、35歳で帰国した寿安の後半生は、漂泊そのものだった。

そして1898年(明治31年)12月15日、広島にて59歳で死去。

特筆すべきことがある。

彼は、日本人初のシベリア横断という体験について、一切の記録を残さなかった

なぜか。

私にはこう思えてならない。あの壮絶な旅は、彼にとって「語るべき功績」ではなく、「自分一人の胸に秘めるべき徒労の記録」になってしまったのだ、と。

沈黙の抵抗

嵯峨寿安は、時代と噛み合わなかった。

あまりに早く動きすぎた。あまりに一人で動きすぎた。

函館でニコライと徹夜でロシア語を学ぶあの熱量は、金沢が長年培ってきた「知的であれば、そのなりふりには構わない」という土地の気風そのものだと、私は勝手に思っている。あるいはそれは、形を変えて生き残った武士の魂だったのかもしれない。

「無事是貴人」。

なにごともなく、静かに生きることが、真の人間の在り方だ――。

彼が岩瀬で残したこの書は、報われなかった人間の痩せ我慢のようにも読めるし、すべてを抱えた上での本物の境地のようにも読める。

どちらであれ、寿安の沈黙は、彼最後の矜持だったのだと思う。

報われなくても、知的に生きることには価値がある。その問いを、彼は口ではなく生涯で答えようとした。

嵯峨寿安 年譜(抜粋)

年号(西暦)年齢出来事
天保11年(1840)1歳金沢・十三間町に生まれる
安政2年(1855)16歳壮猶館で蘭学・漢学を学ぶ
安政4年(1857)18歳江戸・鳩居堂に入門。後に第二代塾頭
慶応2年(1866)27歳函館でニコライと出会い、ロシア語を習得
明治2年(1869)30歳金沢藩よりロシア留学の正式決定
明治4年(1871)32歳函館出発。シベリア横断の旅へ(廃藩置県で藩は消滅)
明治5年(1872)33歳サンクトペテルブルグ到着
明治6年(1873)34歳ペテルブルグで岩倉使節団と遭遇
明治7年(1874)35歳帰国。北海道開拓使御用掛
明治15年(1882)43歳岩瀬に戻り医師開業。「無事是貴人」の書を残す
明治31年(1898)59歳広島にて死去

嵯峨寿安(さが じゅあん)をAIで蘇らせる

嵯峨寿安の写真が数少ないが残されている。その写真をもとにAIで現代の写真として蘇らせてみた。出典:『郷土に輝く人びと 第2集』など