私が金沢という街に深く魅せられるようになったきっかけは、一冊の本との出会いにある。森田平次が生涯をかけて編んだ『金澤古蹟志』だ。金沢の地名や旧跡の来歴を丹念に記したこの書物を手にした瞬間、この街の地層がいっきに眼前に広がるような感覚を覚えた。それ以来、私のライフワークは『金澤古蹟志』の現代語訳を完成させることと決めている。その訳業を進めるにあたり、著者・森田平次、すなわち柿園という人物の全体像をあらためて見つめ直すことには、単なる背景知識の整理を超えた意味がある。
本記事では、曽孫にあたる鈴木雅子氏の一連の研究論文や、『柿園日記』『柿園舎記談』『子孫心得方遺戒書』などの一次史料に基づき、森田柿園の生涯を通覧するとともに、彼が子孫に遺した生活規範の内容を紹介する。
1. 森田家の来歴と「柿園」の由来
森田家の元祖・森田武右衛門は越前吉田郡森田村(現・福井市、福井駅隣の森田駅周辺)の出身である。武右衛門の子孫が金沢の柿木畠に住み始めたことが、森田家と金沢を結ぶ起点となった。
安永二年(1773)九月、加賀藩士茨木鉄次郎(のち源五左衛門自道)の家来であった森田武右衛門通顕は、木倉町の住居をやむを得ぬ事情で明け渡し、柿木畠の古家に移り住んだ。以後、森田家は同地に百五十年近くにわたって居住を続けることになる。
「柿園」という号の由来は、八代作左衛門の時代に六十石を得て居宅を「柿園舎」と名づけたことに始まる。その命名の根拠は、現在も金沢に残る地名「柿木畠」にある。柿木畠は寛永八年(1631)および同十二年の二度の大火の後、三代藩主前田利常が城南の火除地として柿の木を植えさせた土地であり、利常が平素より柿を好んだことも背景にあった。森田平次はこの先祖代々の土地への愛着から「柿園」と号したのである。
2. 森田平次の生涯
2-1. 出生から青壮年期
文政六年(1823)、森田平次は金沢・柿木畠の柿園舎に生まれた。幼名を鉄吉といい、のちに平之佑(へいのすけ)、良見(よしみ)と称した。
平次は若い頃より加賀藩の旧記を調べ、近隣の古老に話を聞き取るなどして郷土研究に打ち込んだ。安政四年(1857)、三十五歳の時に家の記録を年代順に整理し、『柿園日記』八冊の基礎を築いた。同日記は天文十二年(1543)の元祖・三郎左衛門良明の出生から、平次自身の明治四十一年(1908)に至るまでの森田家の記録である。
また嘉永五年(1852)頃には、柿木畠の地の来歴を詳述した『柿園舎乃記』を著し、のちにそれを発展させた『柿園舎記談』(明治三十一年成立)を子孫のために書き残している。
2-2. 幕末の動乱と加賀藩への出仕
慶応四年(1868)、平次は四十六歳にして加賀藩に仕えることとなった。主人茨木源五左衛門忠恕の供をして越中境関所に在勤していた折、留守中に寺社所出勤の命を受け、以後は寺社所に出勤した。
明治二年(1869)三月、職制改革により寺社所が廃止されると民政寮附属となり、同年十一月には前田家「家録編輯係」として御雇となった。明治三年(1870)には前田家の「御前講」を賜り、明治四年(1871)には廃藩置県に伴い前田慶寧が東京に移住した後の広坂・金谷両殿および城内の和漢書籍・旧記類の「蔵書調査係」を命ぜられた。
2-3. 美川での県庁出仕と白山論争記
明治五年(1872)、蔵書調査が完了し、前田家蔵書を自宅に借用して研究に没頭する日々を過ごしていたところ、同年四月に等外三等出仕を拝命し、庶務課社寺係として美川町の県庁に出仕することとなった。
美川では赴任早々、上役の高木有制、同僚の藤沢三九郎が相次いで辞職し、平次が一人で社寺係の事務を担うこととなるなど困難が続いた。しかし平次の能力は評価され、わずか三十日ごとに昇進するという異例の出世を果たしている。
この美川在住期間における最大の功績が「白山論争記」の執筆である。足羽県(福井県)が白山麓十八ヶ村を越前国大野郡に帰属させるべきと主張した際、平次は旧藩蔵書中の明暦元年の騒論の留記および旧図を示して、白山麓が元来加賀国の領地であったことを証明した。その結果、明治五年十一月、太政官達により白山と白山麓十八ヶ村は石川県の管轄に決定された。参事内田政風は格別にこれを悦び、平次を呼んで「誠に当県の面目、実に御取調方行届候故」と賞賛した。平次自身も大いに喜び、「腰折のあさけりをもわすれつつ」と歌を詠じて呈上している。
なお美川では医師・米田文庵と親交を深め、飲酒の害についての知見を得たことが、後年の『遺戒書』における禁酒論の基礎となった。
2-4. 辞職と著述への専念
明治九年(1876)四月、平次は五十四歳で石川県を辞職し、以後は柿木畠の自宅において著述に専念する生活に入った。主な著述としては、加賀・能登・越中三国の地誌である『加賀志徴』『能登志徴』、そして最大の仕事である『金澤古蹟志』(明治二十四年=1891年執筆、六十八歳)が挙げられる。
辞職後の平次の暮らしぶりについて、曽孫の鈴木雅子氏は次のように記す。「大抵一日中暗い一室に坐して左右の書と筆硯とを唯一の伴侶として倦むことなく」、それでいて「無病壮健杖も不突、眼鏡も不用壮年と異らず」(『柿園日記』八、明治三十五年元旦、八十歳)という状態であった。
妻の逸(いつ)は来客の取次や家事の一切を引き受け、平次が研究に集中できる環境を支えた。逸が部屋の唐紙を開けて手をつき、「申し申し」と声をかけると、平次はそこで初めて筆を置いたという。
3.「子孫心得方遺戒書」に記された生活規範
平次が明治三十年頃から書き継ぎ、三十八年頃に筆を置いたとされる『子孫心得方遺戒書』は、自らの人生経験から導き出された生活規範を子孫に伝えるための文書である。以下にその主要な項目を紹介する。
3-1. 健康に関する戒め ── 衛生と長寿
平次は明治二十八年(1895)、七十三歳の時に、生後十ヵ月の孫・良雄に向けた書付のなかで、次のように記している。
長寿壮健を思はゞ必ず衛生を専要とすべし 衛生は必ず飲酒過食を慎むべし 老後安穏を思はゞ必ず蓄財を専要となすべし 貯蓄は必ず堪忍質素を慎み守るべし 衛生も貯蓄も常に忘るなよ老て悔むはおろかなるべし
これは平次の父・大作(翠園)の教えを継承したものでもあり、健康と経済の両面における自律を説いた内容である。
3-2. 飲酒・喫煙の禁止
『遺戒書』では「一、男女共烟草を呑事 一、大酒井晩酌之事」を堅く禁止すべき事項に加えている。
美川在住時代に懇意にした医師・米田文庵は「酒はアヘンとひとしく其毒甚し」と説いた。平次はこの見解に共感し、飲酒を慎むことが健康の基本であること、また酔って言うべきでないことを口走り人間関係を壊す危険があることを理由として、禁酒を訴えた。
ただし記録を子細に見ると、平次自身は決意しながらもすぐには断つことができなかった様子もうかがえる。『柿園日記』七には明治十九年(1886)正月の禁酒・禁煙の決意が記される一方、『遺戒書』では六十二歳で晩酌を禁止し六十六歳で煙草を禁止したとあり、決意と実行の間には数年の揺れがあったことが読み取れる。
3-3. 粗食の勧めと暴食の戒め
平次は菜食を主とした淡白な食生活を送っていたとされる。『加越能時報』二一一号の伝聞によれば、主食は毎日粥を二食とし、お菜は野菜類が中心で肉は食べず、魚の刺身を少量とる程度であったという。
『遺戒書』における暴食の戒めは、分相応に暮らすことを是とする信条から自然に導かれたものであった。
3-4. 経済と蓄財に関する規範
平次は質素倹約を第一とし、「厚く金銭を貯め、非常を恐れざるべし」と記した。背景には、明治十七年(1884)に要用会社が倒産し、先祖以来の家禄分まで失った苦い経験がある。この失敗を深く痛感した平次は、以後こつこつと倹約しながら資産を取り戻した。
『遺戒書』には朱書きで「一、貯蓄金は郵便局に限る事 一、銀行井金満家に一切不可預事」と書き足されている。当時、士族の一時金を目当てに金融機関が乱立し、明治十七年頃より軒並み倒産して破産する金沢士族は千人を超えたという時代の中で、実体験に基づく切実な戒めであった。
また、親族縁者や朋友であっても金銀の貸借はするな、金銭貸借の保証人に立つな、と繰り返し述べている。所得の三分の一は非常用に貯蓄せよ、買上の代金は当座払いとし掛けにしてはならぬ、飯米薪炭は安値の時期に買入れよ、といった具体的な注意もある。
3-5. 蔵書に関する厳命
平次は「家宝財重宝ハ書籍ヲ第一トス」と述べ、子孫の心得として蔵本を人に貸し渡すことを堅く禁じた。明治五年に金沢県庁から旧記類二十六箱を拝領し、旧藩主慶寧卿からも古書を拝領した際には「我家の面目、祖先への孝行、吾身に於いて一生の僥倖是にしくものなし」と感激している。
明治十八年(1885)に東京の前田家から蔵書借用の申し入れがあった際には、自分の著述に入用であり一切他出しないことにしていると答え、代わりに筆耕者に写させることを提案した。ただしこの一方で、松雲公親筆の奥書のある「春日社家日記」二冊などは前田家に献上しており、文化的に適切な場に帰属させる判断力も併せ持っていた。
3-6. ランプ・石油の禁止
平次は生涯にわたって行燈(あんどん)を使い続け、ランプを用いなかった。
今人々ランフを用ひ行燈を癈し石油を専ら用ふといへとも近比の火災は多分出火の原因は石油也 又石油にて火傷にかゝり没命する人多し 故に心ある人は是を用ひず予も今以種油のみ用ひ行燈を用る事旧の如し 子孫永くランフ石油を禁すべし
この方針は単なる保守ではなく、火災の危険性を合理的に判断した結果であった。一方で文久元年(1861)には娘に種痘を施し、明治七年には白山でドイツ人旅行者と歓談するなど、新しいものを一律に拒絶していたわけではない。
3-7. 家と先祖への孝行
『遺戒書』で繰り返し説かれているのは、先祖代々の家と墓を守ることの重要性である。
他県で奉職することについて平次は「親懸りの内はともかく家督相続の上は辞職して必ず我家へ帰り、我家に居ていかやうともなすべし」と記し、先祖伝来の道具類を売り払い墳墓を無縁とすることは「其家断絶するも同様」であり「先祖代々の聖霊へ対し不孝至極大悪人といふべし」と断じている。
先祖以来住み慣れた家屋を修繕して代々持ち伝えることが孝行であるという信条は、柿園舎に対する平次の態度に一貫して表れている。
4. 柿園舎の変遷と柿木畠
森田家の柿園舎は上柿木畠四十三番地に所在した。安永二年(1773)に武右衛門通顕が古家を購入して以来、天明八年(1788)に建て替え、文化七年(1810)に隣家と振替えて移り住むなどの変遷を経ながら、代々の手入れによって維持された。
明治九年に辞職した平次は家の大修理に着手し、増村理三郎に依頼して入口・茶の間・座敷を順次改修した。明治十五年秋には石浦神社旧社地から飛石・梅の古木・枇杷・石榴を譲り受けて庭を整え、念願の土蔵も明治三十年代に完成した。
平次の死後、柿園舎は長男・外與吉が管理し、各地への転勤中も斎川貞次に委託して修繕を続けた。大正六年(1917)に外與吉が桜畠に新居を建てて転居した後は貸家となり、昭和十七年頃に手放されたと見られる。昭和三十三年の地図では旅館「一休」となっており、その後アパートが建てられ、二百年近い歴史を持つ柿園舎は姿を消した。
5. 晩年の柿園──孫の証言から
明治四十年(1907)、外與吉が金沢に転勤となり、柿園舎には久方ぶりに一家が揃った。当時十四歳の孫・良雄は祖父との同居生活の印象を『忍ぶの露』に書き留めている。
良雄が最初に金沢を訪れたのは明治三十三年(1900)、七歳の時である。薄暗い家に行燈がぼんやりと灯る中、足を引きずって現れた祖父を見て「さながらおばけ屋敷にでも入ったような気がした」という。一方で、泣きじゃくる良雄に松任のあんころを出してくる優しさもあった。
同居時代の良雄の証言からは、平次の多面的な人物像が浮かび上がる。
- いつも机に向かい研究に没頭していたこと
- 竹の釘を何百本も自ら作り備えるまめさ
- 一枚の紙も粗末にせず、ほごの紙があればすぐにこよりを作ったこと
- 女中が歯痛に苦しんでいると聞けば銭を与えて歯医者に行かせる思いやり
- 「人は他人から聞いて何になる、自分自ら調べ見て始めてよろしきなり」と孫を叱った学問への厳格さ
- 白い夏服の良雄に「昔から人の死んだ時に白い着物を着るものじゃ」と嘆くなど、時代の変化に戸惑う一面
明治四十一年六月、東京の前田侯爵家の編纂係・近藤雄氏が来訪し、庭前で柿園夫妻の写真を撮影した。これが森田柿園の唯一の写真として残されている。その約五ヵ月後の同年十二月一日午後三時十五分、家族一同の看護のもと、平次は八十六歳で静かに息を引き取った。法号は「柿園斎平次良見居士」。平次自身が生前に自撰したものである。
葬儀は柿木畠の自宅から中橋の放生寺まで盛大な行列が続き、会葬者は約二百三十人に上った。前田侯爵家からも家従が訪れ香典が供えられた。平次は生前、非常の時の費用として郵便貯金通帳一冊(元利百八十余円)を用意しており、妻の逸がこれを葬儀費用に差し出した。遺戒書の教えを身をもって示した最期であった。

6. 記録が時間を超えるとき
森田柿園は「日本の歴史に名を残すような人ではない」と曽孫の鈴木雅子氏は率直に記している。事実、白山麓が石川県に帰属したことへの彼の貢献は、今ではほとんど忘れられている。放生寺の門前に立っていた「ここに森田柿園の墓がある」と記された木の立札も、金沢駅の高架工事に伴う建て替えで姿を消した。
しかし平次が遺した記録は、今も生き続けている。『金澤古蹟志』は江戸期の金沢を知るための基本文献であり続け、石川県立図書館の「森田文庫」には彼の著作と収集本が収められて研究者に利用されている。
平次が生涯をかけて記録し続けた文字の群れは、金沢という都市の記憶そのものである。地名の由来、旧跡の来歴、町家の住人の移り変わり──それらは平次が一次史料を渉猟し、古老の話を聞き取り、自らの足で歩いて確認した事実の集積にほかならない。
『遺戒書』に記された生活規範は、一見すると偏屈な老人の小言のようにも映る。しかしその一つひとつには、幕末から明治という激動期を生き延びた人間の実感がこめられている。要用会社の倒産で資産を失った経験が「貯蓄金は郵便局に限る事」という一文を生み、石油ランプの火災を見聞した経験が行燈への固執を支え、米田文庵との対話が禁酒論の根拠となった。規範は抽象的な教訓ではなく、すべてが具体的な体験から導き出されている。
平次は「固陋因循といふ者は至愚といふべし」──自分を頑固だ旧弊だという者こそ愚かだ──と述べた。この言葉には、時代の変化に翻弄されながらも自らの判断基準を手放さなかった一人の知識人の矜持がある。
記録は時間を超える。平次が寸暇を惜しんで机に向かい書き続けた文字は、百年以上の歳月を経た今も、金沢の街の姿を私たちに伝えてくれる。その声に耳を傾けながら『金澤古蹟志』の超現代語訳を進めることは、記録を通じて時間を超えようとした一人の郷土史家への、ささやかな応答であると考えている。
付録1:森田平次(柿園)詳細年表
| 年 | 和暦 | 年齢 | 事項 |
|---|---|---|---|
| 1543 | 天文12 | — | 元祖・三郎左衛門良明出生(『柿園日記』巻一の起点) |
| 1773 | 安永2 | — | 森田武右衛門通顕、柿木畠の古家を購入し移住 |
| 1788 | 天明8 | — | 柿園舎を建て替え(二階造り) |
| 1810 | 文化7 | — | 祖父・作左衛門修陳、隣家と振替えて現在地に移る |
| 1823 | 文政6 | 1 | 森田平次(鉄吉)、金沢・柿木畠に生まれる |
| 1840 | 天保11 | 18 | 父・大作(翠園)が柿園亭にて親族兄弟四人の酒宴を催す |
| 1852 | 嘉永5 | 30 | 『柿園舎乃記』の基礎を執筆(如来寺知一上人の序文) |
| 1857 | 安政4 | 35 | 『柿園日記』の整理・編纂に着手。父翠園が漢詩の跋を誌す |
| 1865 | 慶応1 | 43 | 友人らと越後・上路山の旧跡を探訪 |
| 1868 | 慶応4/明治1 | 46 | 越中境関所在勤中に寺社所出勤を命ぜられ、加賀藩に仕える |
| 1869 | 明治2 | 47 | 前田家「家録編輯係」となる |
| 1870 | 明治3 | 48 | 前田家の「御前講」を賜る |
| 1871 | 明治4 | 49 | 前田家の「蔵書調査係」を命ぜられる(広坂・金谷両殿の蔵書調査) |
| 1872 | 明治5 | 50 | 蔵書調査終了、前田家蔵書を自宅に借用。等外三等出仕拝命、美川町の県庁に出仕。白山麓十八ヶ村境界検査に従事し、「白山論争記」を執筆。白山が石川県の管轄となる |
| 1872 | 明治5 | 50 | 金沢県庁から旧記類二十六箱を拝領 |
| 1873 | 明治6 | 51 | 県庁の金沢移庁に伴い美川を去る |
| 1876 | 明治9 | 54 | 石川県を辞職。以後、自宅にて著述に専念 |
| 1876-77 | 明治9-10 | 54-55 | 柿園舎の大修理(増村理三郎に依頼) |
| 1882 | 明治15 | 60 | 石浦神社旧社地から飛石・梅等を譲り受け庭を整備 |
| 1884 | 明治17 | 62 | 要用会社倒産により資産を喪失 |
| 1885 | 明治18 | 63 | 東京前田家からの蔵書借用を断り、筆耕者による写しを提案 |
| 1886 | 明治19 | 64 | 正月に禁酒・禁煙を決意 |
| 1891 | 明治24 | 69 | 『金澤古蹟志』執筆 |
| 1894 | 明治27 | 72 | 嫡孫・良雄誕生 |
| 1895 | 明治28 | 73 | 「子孫に示す詞」を認め、良雄に宛てた書付を作成 |
| 1898 | 明治31 | 76 | 『柿園舎記談』を著す |
| 1900 | 明治33 | 78 | 金婚を前に夫婦壮健。孫・良雄(7歳)が初めて金沢を訪問 |
| c.1900-05 | 明治30年代 | — | 『子孫心得方遺戒書』を書き継ぐ(明治38年頃筆を置く) |
| 1903 | 明治36 | 81 | 夫婦とも壮健で金婚式を迎える |
| 1904 | 明治37 | 82 | 外與吉に家督を譲り隠居届を提出 |
| 1907 | 明治40 | 85 | 外與吉が金沢に転勤、一家が柿園舎に同居。五月に電燈を引く。夏の夜に縁側から転落し腰を打つ |
| 1908 | 明治41 | 86 | 六月二十日、前田侯爵家編纂係の来訪で唯一の写真を撮影。十二月一日午後三時十五分、没 |
付録2:出典・参考文献一覧
一次史料:森田平次著作・日記類
- 『柿園日記』全八冊 ── 天文十二年(1543)~明治四十一年(1908)。森田家代々の記録。巻一~五が後年の整理、巻六以降は逐次的な記述。
- 『柿園舎乃記』 ── 柿木畠の地の来歴を詳述。嘉永五年(1852)如来寺知一上人の序文あり。
- 『柿園舎記談』 ── 明治三十一年(1898)成立。『柿園舎乃記』を発展させ、安政以後のことも書き加えたもの。
- 『子孫心得方遺戒書』 ── 明治三十年頃から書き継がれ、明治三十八年頃に完結したとされる。子孫への生活規範を記す。
- 『金澤古蹟志』 ── 明治二十四年(1891)執筆。金沢の地名・旧跡の来歴を記した主著。昭和五十一年(1976)に日置謙による校訂版が歴史図書社から刊行。
- 『加賀志徴』『能登志徴』 ── 加賀国・能登国の地誌。原稿に夥しい朱入れと付箋が残る。
- 『白山論争記』 ── 明治五年(1872)。白山麓十八ヶ村の石川県帰属に関する論考。
- 『八重の塩風』 ── 参事内田政風からの書簡を集めた冊子。
- 『改正森田家譜』 ── 森田家の系譜記録。
二次研究文献:鈴木雅子による一連の研究
- 鈴木雅子「柿木畠近辺の家々と柿園舎のその後」(『金沢のむかし』所収)
- 鈴木雅子「森田平次の美川生活とその前後」(『金沢のむかし』所収)
- 鈴木雅子「森田平次の美川生活 その二」(『金沢のむかし』所収)
- 鈴木雅子「森田平次著『柿園舎記談』について」(『金沢のむかし』所収)
- 鈴木雅子「晩年の森田柿園 その一」(『金沢のむかし』所収)
- 鈴木雅子「晩年の森田柿園 その二」(『金沢のむかし』所収)
※鈴木雅子氏は森田平次の曽孫にあたり、『柿園日記』『霞園日記』(長男外與吉の日記)および孫良雄の『忍ぶの露』等の家族史料に基づく実証的な研究を発表している。
関連史料・参照文献
- 『霞園日記』 ── 森田外與吉(平次長男)の日記。昭和十五年(1940)まで。
- 『忍ぶの露』 ── 森田良雄(平次の孫)による柿園の追想録。明治四十二年(1909)二月編。
- 『加越能時報』第二一一号(明治四十一年十二月)── 柿園の逸話と唯一の写真を掲載。
- 小倉学「上柿木畠居宅近隣家主名烈」解説(『金沢柿木畠』柿木畠振興会所収)
- 田中喜男『わが町の歴史・金沢』 ── 明治期の金沢士族の経済状況に関する記述。
- 『稿本金沢市史』市街編 ── 柿木畠の行政区画変遷に関する基本資料。
- 森田文庫(石川県立図書館所蔵)── 森田平次の著作および収集本を収める。昭和六十二年に良雄が全て寄付。