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明治という新しい時代の幕開けとともに、日本の美を世界に見出した一人の商人がいた。その名は円中孫平(まるなか まごへい)。彼は、九谷焼や加賀象嵌といった地場産業を「世界のブランド」へと押し上げ、石川県の近代化にその身を捧げた人物だ。その波乱に満ちた生涯を辿る。
(人物像はイメージです)
1. 越中から金沢へ、そして激動の幕末を駆け抜ける
円中孫平の波乱に満ちた生涯は、天保元年(1830年)、越中(現在の富山県)東砺波郡和泉村の一軒の農家に産声を上げたことから始まる。彼は土に生きる農民として終わる人物ではなかった。若くして商都・大阪へと身を投じた孫平は、商売の真髄が渦巻くその地で、後に「商才の塊」と称される基礎を徹底的に叩き込まれた。この大阪時代の経験が、後に彼が世界を相手に立ち回る際の揺るぎない土台となった。
嘉永4年(1851年)、21歳になった孫平は、金沢の笠市町で菅笠商を営む「中野屋孫兵衛」の養子となる。この縁組が彼の運命を大きく変えることとなった。彼は店の屋号であった「円中」を自らの姓に据え、伝統的な家業を継承しつつも、その枠に収まらない近代的な商社へと脱皮させるべく動き出した。
幕末の足音が近づき、日本中が騒乱に揺れるなか、孫平の視線は国内の小さな取引ではなく、海を越えた「貿易」の地平を捉えていた。慶応2年(1866年)、彼は商いの拠点として大阪に貿易商社「益亀組」を設立する。当時、まだ海のものとも山のものともつかなかった海外取引に果敢に挑み、江沼・能美郡で生産された茶を神戸港から輸出するルートをいち早く構築した。この先見明快な行動こそが、彼を「輸出の先駆者」へと押し上げる端緒となった。
孫平の名を決定的に高めたのは、明治元年(1868年)に勃発した北越戦争での決断だった。混乱を極める戦時下、彼は新政府軍からの要請に応じ、兵士の被服3万3千着という膨大な物資を一手に引き受け、滞りなく納入してみせた。この大規模な取引によって得たのは、単なる巨額の利益だけではない。新政府軍から得た「円中孫平という男は信頼に値する」という絶大な信用こそが、その後の万国博覧会進出や世界的な飛躍を支える最強の武器となったのである。
- 輸出ビジネスへの着手: 慶応2年(1866年)、大阪に「益亀組」を設立。地元の茶を神戸から輸出するルートをいち早く開拓した。
- 維新の波を掴む: 明治元年(1868年)の北越戦争では、新政府軍の兵士用被服3万3千着を一手に引き受け、納入。この大規模な取引で得た莫大な利益と政府からの厚い信頼が、後の世界的飛躍の足がかりとなった。
2. 万国博覧会:日本文化を世界へ知らしめた立役者
明治政府が国威発揚を掲げ、未開の東洋文化を西洋に誇示した万国博覧会。孫平はこの巨大な舞台を、単なる展示の場ではなく、石川の物産を世界市場へと叩き込む「勝負の場」と捉えていた。明治6年(1873年)のウィーン万博には納富介次郎らと共に博覧会御用係として渡欧し、欧州市場の熱気と需要を直接肌で感じ取った。
真価が問われたのは明治9年(1876年)のフィラデルフィア万博だった。孫平は自らアメリカへと渡り、石川の誇る銅器や陶器、さらには製糸や製茶を堂々と出品した。結果、そのすべてにおいて一等賞を獲得するという驚異的な快挙を成し遂げ、日本工芸の質の高さを世界に証明してみせた。この時、彼は展示だけでは終わらなかった。ニューヨークの商会と直接交渉を行い、大量の生糸注文を取り付けることに成功する。これが「日本生糸の米国輸出」という歴史的な第一歩となり、後の外貨獲得の柱となる貿易の礎を築いた。
さらに、孫平が石川の産業界、とりわけ九谷焼の職人たちから「大恩人」と崇められる理由は、その圧倒的な市場開拓力にある。明治初頭、販路を失いかけていた九谷焼の年産額は、明治7年時点でわずか3万円程度に過ぎなかった。しかし、孫平が世界へと販路をこじ開けたことにより、明治14年には20万円へと急増した。彼は伝統をただ守るのではなく、海外への輸出産業という新たな命を吹き込むことで、地方の工芸を「世界ブランド」へと変貌させたのである。
孫平の野心は、その後もとどまることを知らなかった。明治11年のパリ万博には養子の文助らを派遣して銅器で金牌を、陶器で銀牌を獲得させ、日本工芸の地位を不動のものとした。同時に、横浜に「円中組」を、さらに明治13年には「扶桑商会」を設立する。パリには支店を置き、シカゴには代理店を構えるなど、当時としては破格のスケールで世界規模の流通網を独力で築き上げた。一地方の商人が、国家の保護に頼り切ることなく、パリやシカゴを拠点に世界を股にかけて立ち回る姿は、まさに近代貿易の先駆者そのものであった。
- フィラデルフィア万博(明治9年)の快挙: 自ら渡米し、銅器や陶器、製糸を出品。そのすべてで一等賞を獲得するという驚異的な成果を上げた。特筆すべきは、ニューヨークの商会から生糸の注文を取り付けたことだ。これが、「日本生糸の対米輸出」の歴史的な第一歩となった。
- 九谷焼の救世主: 彼の輸出促進により、明治7年に3万円程度だった九谷焼の年産額は、わずか7年後の明治14年には20万円へと急増した。衰退の危機にあった伝統工芸を、輸出産業の柱へと成長させた功績は計り知れない。
- グローバルネットワークの構築: 横浜に「円中組」、さらに「扶桑商会」を設立し、パリ支店やシカゴ代理店を設置した。当時としては破格のスケールで世界規模の流通網を築き上げた。
3. 地場産業の近代化と地域への献身
孫平の情熱は、単に海外で私腹を肥やすことにはなかった。彼は貿易で得た莫大な利益と最先端の知見を、惜しみなく郷土・石川の近代化へと投じたのである。その姿勢は、一介の商人という枠を超え、地域の未来をデザインする産業プロデューサーそのものであった。
特に彼が心血を注いだのが、石川の屋台骨となる繊維産業の振興だった。明治10年、孫平は長谷川準也らと共に「金沢撚糸会社」を設立する。これに先立ち、彼は養子の文助をわざわざイタリアへ派遣して本場の撚糸技術を学ばせていた。この海外で培った最新技術を地元の工場に導入することで、石川の繊維業を世界基準へと引き上げる強固な土台を築き上げたのである。
また、彼の活動範囲は多岐にわたった。明治4年には七尾軍艦所の施設払い下げを受け、造船技術の普及と人材育成に尽力した。さらに、自身の出自である菅笠商たちを束ねる「菅清会社」の設立や、現在の金沢商工会議所の前身となる金沢商工会の立ち上げにも奔走した。こうした地方産業の組織化と近代化への貢献は、石川の経済基盤を盤石なものとした。
こうした彼の献身的な活動は国家からも高く評価されていた。明治11年に明治天皇が北陸を巡幸した際、金沢博物館において孫平が出品した海外貿易品や精巧な銅器が天覧に供されるという、商人として最高の名誉に浴した。まさにこの時、円中孫平の名は石川を代表する実業家として頂点に達していたのである。
- 先端技術の導入: 養子の文助をイタリアへ派遣し、最新の撚糸(ねんし)技術を学ばせた。帰国後、明治10年に「金沢撚糸会社」を設立し、石川の繊維産業の近代化を牽引した。
- 多角的な地域貢献:
- 七尾軍艦所の払い下げを受け、造船技術の育成に着手した。
- 金沢商工会議所の前身となる組織の設立に奔走した。
- 明治11年の天皇巡幸の際には、自らが手掛けた輸出雑貨や銅器が天覧に供される栄誉を授かった。
4. 挫折と晩年:激動を生き抜いた商人の誇り
世しかし、絶頂を極めた「世界の円中」にも、過酷な時代の波が襲いかかる。明治17年(1884年)、事業を急拡大させていた矢先、日本経済を襲った松方デフレによる大恐慌が彼の運命を一変させたのである。
激しい為替相場の変動は、海外に広大なネットワークを築いていた孫平にとって致命的な打撃となった。莫大な損害を抱えた彼は、誇り高き「円中組」や「扶桑商会」の閉鎖を決断し、失意のうちに拠点としていた地を去り、金沢へと帰郷することになった。世界を股にかけて立ち回った豪商のあまりに急な落日であった。
かつての華やかな成功からは想像もつかないほど、彼の晩年は静かなものだった。金沢の片町に居を構えた彼は、かつての栄光を誇ることもなく、漁網の製造販売などを細々と営みながら、静かに余生を過ごした。かつてニューヨークやパリの商人たちを相手に渡り合ったその双眸で、移ろいゆく時代の景色を見つめていた。
明治43年(1910年)7月、激動の明治を駆け抜けた巨星は、81歳でその生涯を閉じた。彼が一代で築き上げた富は散じたかもしれない。しかし、彼が命を吹き込んだ九谷焼の輸出販路や、繊維産業に導入した近代的な精神は、没後も石川の地に深く息づき、今日に至る伝統工芸と産業の発展を支え続けている。
出典
| 区分 | 出典名 | 出典テキスト(抜粋) |
|---|---|---|
| 生い立ち・養子縁組(越中和泉村出生、中野屋孫兵衛への養子入り) | 石川百年史 | 孫平は天保元年(一八三〇年) 九月、越中東砺波郡和泉村で生まれた。父は石崎八郎兵衛。 彼は少年時代、大阪に行って一年間商売を習い、嘉永四年(一八五一年) 数えて二十二歳のと き、金沢の笠市町に菅笠商を営む中野屋孫兵衛の養子になった。 |
| 屋号「円中」 | 石川百年史 | とにかく中野屋は商号を円中といい、その製造する笠は円中笠といって、かなり有名だったらしい。 |
| 益亀組と茶の輸出(慶応2年大阪での設立、江沼・能美の茶) | 石川百年史 | 慶応二年(一八六六年)には大阪安土町に益亀組という貿易商社をつくり、神戸に支店を設けてさかんに貿易を始める。これより先、彼は江沼、能美両郡の茶業者に投資して外国向けの茶をつくらせ、これを慶応三年神戸から初輸出した。 |
| 北越戦争と被服納入(被服3万3千着の受注) | 石川百年史 | 当然、新政府の軍需発注に対して、商人はいずれも二の足をふんでいた。このとき孫平は決然として新政府にかけ、その発注に応じて兵士の被服三万三千着を納入した。 彼を知る商人たちは、これを大変な冒険だとして笑ったものだが、結局北越は鎮定されたので、孫平は〝商機に敏な男〟として有名になり… |
| ウィーン万博(明治6年)納富介次郎らと共に渡欧 | 金沢の百年明治編 | 明治六年(1873)3月…ウィーン博覧会に金沢から納富介次郎、円中孫平が渡欧した。 |
| フィラデルフィア万博(明治9年)自ら渡米、一等賞、生糸の対米輸出 | 石川百年史 金沢の百年明治編 | 九年のアメリカ・フィラデルフィア万国博には自ら渡航して銅器、陶器、製糸、製茶を出品してみな一等を獲得…ニューヨークでローム商会より生糸の注文を多量に受けた。これは日本生糸が米国へ輸出された最初であるという。 |
| 九谷焼の生産額急増 明治7年3万円→明治14年20万円 | 石川百年史 | 九谷焼は明治七年で年産額が三万円に過ぎなかったのに十四年には二十万円にも達している。まことに孫平は県下陶銅漆器、繊維業界の大恩人といわねばならない。 |
| パリ万博と円中組 養子文助の派遣、銅器金牌、陶器銀牌 | 石川百年史 | 十一年には横浜に輸出雑貨商円中組をつくり、この年パリで開かれた万国博には文助ほか二人を派遣…銅器は金製一等賞牌、陶器は銀製二等賞牌をうけ… |
| 扶桑商会の設立と海外拠点 明治13年設立、パリ・シカゴ展開 | 石川百年史 | これより先十三年、孫平は横浜に貿易会社扶桑商会をつくっ…文助をパリに派遣して円中組支店をつくり、また代理店をシカゴに置いた。 |
| 金沢撚糸会社の設立と養子文助のイタリア派遣 | 石川百年史 | 明治十年、孫平は長谷川準也らと共に「金沢撚糸会社」を設立する… これに先立ち… さっそく養子文助をつれて上京したが… 自費で文助一人を渡航させた。… イタリア・チューリンの学校にはいって製糸学を修め… 金沢撚糸会社の創立に協力している。 |
| 七尾軍艦所の払い下げと造船技術 | 石川百年史 金沢の百年 明治編 | 明治4年7月軍艦所の施設を円中孫平、宮田吉良右衛門が払い下げをうけ、造船技術を教えている。七尾軍艦所が廃止された。廃止後は円中孫平と宮田吉良右衛門が機械の払下げを受けて経営… |
| 菅清会社の設立 | 石川百年史 金沢の百年 明治編 | 十一年には円中孫平ら菅笠商たちによる菅清会社…明治十一年(1878)1月27日 円中孫平らの菅笠(すげがさ)商たちが菅清会社の設立を計画して許可になった。 |
| 金沢商工会の立ち上げ | 石川百年史 | 二十年一月森下森八、中屋彦十郎… 円中孫平… らによって金沢商工会が結成され… |
| 明治11年の天覧(明治天皇巡幸) | 兼六園全史 石川百年史 | 次いで集産館内特別陳列室にて金沢円中孫平等… の銅器… を御覧あそばされ…円中孫平の海外貿易…十一年には… 石川県産物を出品し、銅器は金製一等賞牌… |
| 明治17年の恐慌と事業閉鎖 | 石川百年史 | 十七年… 為替相場の変動による大恐慌… 彼はついに円中組の本支店と扶桑商会を閉鎖して郷里金沢に帰ってきたのだった。 |
| 晩年(漁網製造)と死去 | 石川百年史 金沢の百年 明治編 | 片町で細々と漁網をつくってこれを北海道に売りながら、明治四十三年七月、八十一歳の生涯を閉じた。 明治四十三年(1910)7月5日 金沢実業界の先覚者円中孫平死去。81歳。 |