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なぜコソボを語るか
旧ユーゴスラビア、西バルカン地方を旅しようと思ったら避けて通れないのが、コソボ・アルバニア・セルビアの歴史の話だ。これらの国々のことをどのくらい知っているだろうか。コソボといえば「コソボ紛争」を連想するだろうけれど、その中身をしっかりと説明できるだろうか。そもそもコソボという国の場所すら怪しいという方がほとんどかもしれない。コソボのことを少し知っている方であれば、アルバニアとセルビアの領土争い、NATOの介入――知識といったらその程度かもしれない。
「ヨーロッパの火薬庫」とも呼ばれるこのエリア。特に現代史では、コソボとセルビアの関係が非常にセンシティブな問題となっている。
このコソボ問題を紐解いていくと、戦前から見られるヨーロッパの意味不明な介入や、宗教が深く絡み合い、憎しみ合う結果が現在も続いていることがわかる。コソボ問題を分かりやすく文章にまとめるのは難しい。AIの説明も、やはり紐解くにはたくさんの対話が必要になる。どこから始まりを定めるか、そしてこれまでの経緯が長いからだ。
コソボ紛争の要点と歴史的背景(中世〜2008)
要点(超概要)
セルビア正教会とアルバニアのイスラム教(スンナ派)がコソボで交わることで火種が生じる。コソボはもともとセルビアの地とされるが、住民の多くはアルバニア系。1990年代にミロシェヴィッチ政権下でコソボの自治が剥奪され、セルビア寄りの統治が強まったことで、コソボは独立を志向・宣言。アルバニア系とセルビア系の対立が続く中、NATOが介入し、国際社会は徐々にコソボを承認していく。
歴史の流れ
中世のコソボはセルビア王国の中核地で、セルビア正教会の重要拠点でもあった。だが14世紀末、1389年のコソボの戦いを経てオスマン帝国の勢力下に入る。オスマン帝国時代、セルビア人は正教を守り続け、アルバニア人の多くは社会・経済的要因からイスラム教に改宗し、宗教構成が大きく変化した。
19世紀、オスマン帝国の衰退とともにバルカン諸国は次々と独立。セルビアやギリシャなどが承認される一方、アルバニアの独立は遅れ、1912年の第一次バルカン戦争時に独立宣言。翌1913年のロンドン会議でアルバニア独立は承認されたが、コソボはセルビア領とされ、アルバニア人多数の地域が分断された。これが後の火種となる。
第一次世界大戦後(1918年)、セルビアは領土を拡大し、クロアチア人・スロベニア人と合流してユーゴスラビア王国を建国。コソボもその一部となる。第二次世界大戦では一時的に「大アルバニア」に編入されたが、戦後は再びユーゴスラビアへ。
ユーゴスラビア社会主義連邦下でコソボはセルビアの自治州となり、1974年憲法で広範な自治が認められた。しかし1989年、ミロシェヴィッチ政権が自治を大幅に剥奪。1991年、アルバニア人多数派が一方的に独立を宣言するも国際承認は得られず、1998年以降KLA(コソボ解放軍)とセルビア軍の衝突が激化。1999年、NATOが国連安保理承認なしに空爆を実施し、セルビアは撤退。以後、国連暫定統治下を経て2008年に独立宣言に至る。ただし独立承認は国によって分かれ、セルビアは認めていない。
現在も民族間の緊張は続き、オスマン期以来の宗教・民族の変化、20世紀国際政治の思惑、そしてバルカン戦争からユーゴスラビア崩壊に至る歴史が複雑に絡み合っている。
旅する人として
頑張ってまとめたらかなりの長文になってしまった。これは、理解するまでに何度も学ぶ必要があるテーマだ。アルバニア、セルビア、そしてコソボ。観光や旅の紹介では、これらの地域の歴史的背景はほとんど語られない。しかし、現在の民族対立や政治問題を理解するには、その複雑な経緯を追う必要がある。
一度しっかりとコソボ、アルバニアの現状を見に行ってみたい。西バルカンの旅を計画しようと思う。
コソボ中世〜現在
| 年/時期 | 出来事 | ポイント | 主要当事者 |
| 中世〜14世紀末 | コソボはセルビア王国の中核・セルビア正教会の拠点 | セルビア側の歴史的・宗教的アイデンティティの源 | セルビア王国 / セルビア正教会 |
| 1389年 | コソボの戦い | オスマン帝国の影響拡大の転機 | オスマン帝国 / セルビア諸侯 |
| 15〜19世紀 | オスマン支配期 | セルビア人は正教維持、アルバニア人多数がイスラム教へ改宗 | オスマン帝国 / セルビア人 / アルバニア人 |
| 1912年 | アルバニア独立宣言(第一次バルカン戦争) | アルバニア国家の成立 | アルバニア |
| 1913年 | ロンドン会議でコソボはセルビア領に | アルバニア人多数地域が分断される火種 | 列強 / セルビア / アルバニア人 |
| 1918年 | ユーゴスラビア王国成立 | コソボはユーゴに組み込まれる | セルビア / クロアチア / スロベニア |
| 1941〜45年 | 第二次大戦期:一時『大アルバニア』編入→戦後ユーゴへ復帰 | 国境の流動性と民族間の緊張 | 枢軸国 / ユーゴ・パルチザン / アルバニア |
| 1974年 | ユーゴ新憲法でコソボに広範な自治 | 自治権の拡大 | ユーゴスラビア連邦 / セルビア / コソボ自治政府 |
| 1989年 | ミロシェヴィッチ政権が自治を大幅に剥奪 | 以後の対立激化の直接要因 | セルビア政府 / コソボ(アルバニア人多数派) |
| 1991年 | アルバニア系主導で一方的独立宣言(未承認) | 政治的分断が固定化 | コソボ(アルバニア系) / セルビア |
| 1998〜1999年 | KLAとセルビア軍・治安部隊の武力衝突 | 民間人犠牲・難民発生 | KLA / セルビア軍・警察 |
| 1999年 | NATO空爆・セルビア撤退・国連暫定統治(UNMIK)開始 | 国際管理下での安定化へ移行 | NATO / セルビア / 国連(UNMIK) |
| 2008年 | コソボ独立宣言 | 承認は国際的に分かれる/セルビアは不承認 | コソボ / 各国政府 / セルビア |
| 現在 | 北部を中心に民族間緊張が継続 | 宗教・民族・国際政治が複合 | セルビア系住民 / アルバニア系住民 / EU・NATO等 |