小西 裕太 著

金沢市の特別名勝・兼六園。その名は「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」という、本来両立しがたい六つの景勝を兼ね備えた庭園という意味を持つ。北宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』を典拠とするこの命名は、長らく松平定信(白河楽翁)によるものとされてきた。しかし近年、定信自筆の日記『花月日記』の解読により、この定説は覆された。本稿では、加賀藩の一次史料である『加賀藩史料』(全15編・編外備考)と、長山直治・本康宏史両氏をはじめとする近年の研究成果を突き合わせ、命名プロセスの実態に迫る。

なお、本稿の内容は郷土史学会等への論文として発表することも検討したが、兼六園の命名をめぐる議論の現在地をより多くの方に知っていただくために、Web記事という形式を選んだ。

1. 定説の崩壊──松平定信は「書いただけ」だった

兼六園施設内に掲げられている松平定信筆の「兼六園」の扁額

従来の通説

兼六園の命名については、文政5年(1822)に12代藩主・前田斉広の懇請を受けた元老中・松平定信が、李格非『洛陽名園記』の一節に基づいて命名したとする説が、長く定説とされてきた。定信は寛政の改革の立役者にして当代一流の教養人であり、自身も白河の「南湖」、江戸の「浴恩園」「六園」など数々の名園を残した作庭の文化大名である。その定信が百万石の大名庭園に名を贈った──という物語は、あまりにも美しく、疑われることがなかった。

渡邊夫妻の発見

1995年(平成7年)6月5日 北國新聞記事切り抜きより

この定説を覆したのは、渡邊金雄氏ご夫妻による『花月日記』の解読であった。天理図書館所蔵の松平定信自筆日記『花月日記』の文政5年(1822)9月20日条には、以下の記述がある。

大塚へ行。秋色をみて、ただちにかへる。加賀の太守より額字をこふ。兼六園とて、たて三尺ニ横九尺也。兎裘の額にはいとけやけし、兼六とはいかがと、とひにやりぬ。のちに聞けバ摂家のうちより名付けて、誰やらんの文中、園を設くるに得がたきもの六あり、その六を兼しといふ心ばえなり

松平定信『花月日記』文政5年9月20日条(岡嶌偉久子・山根陸広翻刻『ビブリア』138号、2012年)

この記述から判明する事実は三つある。

  1. 定信は「兼六園」の扁額の揮毫(書)を頼まれただけであった
  2. 定信自身は「兼六」の意味を知らず、問い合わせている(「兼六とはいかがと、とひにやりぬ」)
  3. 後に聞いたところでは、命名者は「摂家のうち」(五摂家=近衛・鷹司・九条・二条・一条のいずれか)の人物であった

つまり、松平定信は命名者ではなく、揮毫者にすぎなかったのである。では、真の命名者は誰なのか。

2. 「兼六園」以前──加賀藩史料が示す庭園名称の変遷

命名者を推定する前に、この庭園がどのような名で呼ばれてきたかを整理する必要がある。『加賀藩史料』には、庭園名称に関する複数の重要な記述がある。

「蓮池御庭」──元々の庭園名

兼六園の原形は、金沢城外の蓮池邸に付属する「蓮池御庭」である。5代藩主・前田綱紀の時代に延宝4年(1676)から作庭が始まり、以後約150年にわたって「蓮池御庭」「蓮池庭」と呼ばれ続けた。

享保8年(1723)、この名称をめぐって興味深い一幕がある。

蓮池御庭松植芝伏せ出來仕候段言上候に付、御近習頭罷出、れんち御庭松植替仕…候處、れんちこは何れ之事に候哉…蓮池とは天子より外には成不申儀、蓮池・道臺さて不輕儀に候。重而より左樣之處心付、はすいけと唱候様に被仰出候。

『加賀藩史料』第6編 享保8年の条

綱紀は「蓮池(れんち)」という音読みが宮中の用語と重なり不敬にあたるとして、「はすいけ」と訓読みするよう命じた。前田家が庭園の名称に対して極めて意識的であったことを示すエピソードである。

「竹澤御殿」の命名──文政5年

文政期に入ると、12代藩主・斉広は蓮池庭の上段に隠居所の造営を開始する。文政5年(1822)11月15日、この隠居所が正式に「竹澤御殿」と名付けられた。

中將様無程蓮池上之御居住所御引移被遊思召に候。右御居住所之儀、以來者竹澤御殿与奉唱候樣被仰出候。

『加賀藩史料』第13編 文政5年11月15日の条

注目すべきは、「竹澤」の命名由来が『加賀藩史料』に極めて詳細に記録されていることである。

竹澤は昔より此地の地名なるを聞かず。友人湯淺祇庸に此事を質問せしに、竹澤は地名に非ず、此時初て殿號に定められたる名也。此地園内に金洗澤の舊蹟あるを以て、金澤殿と稱すべき内命ありといへども、金澤府城の名と混するを以て、更に竹澤殿と命ぜられたり。金龍公幼少部屋住の頃、御物の験を竹じるしと稱し來れり。故に驗名の竹と金洗澤の澤とを取合せ、更に竹澤の號を定められしといへり。

『加賀藩史料』第13編 文政5年の条(官私隨筆)

園内の「金洗澤」にちなみ当初「金澤殿」とする案があったが、城下町名との混同を避け、斉広の幼少期の印「竹じるし」の「竹」と金洗澤の「澤」を組み合わせて「竹澤」としたという。この命名過程は、斉広が名称に強い関心を持っていたことを端的に示している。

名称変遷の概要

時期名称対象備考
延宝4年(1676)〜蓮池御庭庭園5代綱紀より作庭開始。約150年間使用
享保8年(1723)(読み方の変更)庭園「れんち」→「はすいけ」に統一
文政5年(1822)11月竹澤御殿殿閣(建物)斉広の隠居所。藩内で命名過程が詳細に記録
文政5年(1822)9月以前兼六園庭園「摂家のうち」が命名。命名過程は藩の公式記録に不在

ここで重要な事実が浮かび上がる。「竹澤」という殿閣名は藩の行政記録に命名経緯が詳細に残されている一方、「兼六園」という庭園名は加賀藩史料に一切記録されていない。この非対称性こそ、「兼六園」の命名が藩外の人物による私的な贈り物であったことを示唆している。

3. 命名者の推定──鷹司家の蓋然性

定信が記した「摂家のうち」とは、五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)のいずれかを指す。長山直治氏は、斉広夫人・真龍院の実家である鷹司家(たかつかさけ)の人物ではないかと推定した。加賀藩史料は、この推定を裏付ける豊富な状況証拠を提供している。

鷹司家と前田家の婚姻

文化4年(1807)9月13日、斉広と鷹司関白・政熙の娘との縁組が幕府に許可された。

手前緣組之儀、鷹司關白殿息女申合度旨、七月廿二日相願候處…願之通被仰出

『加賀藩史料』第11編 文化4年9月13日の条

同年10月、鷹司政熙は嫁ぐ娘に「御教訓」を授けている。この教訓書は『加賀藩史料』に全文が収録されており、「鷹司殿姫君と申御儀はかならず思召されず、御入輿の日よりは萬端彼御方御家風に御したがひ遊され」と説く格調高い内容で、鷹司家の高い教養水準を窺わせる。斉広夫人は後に真龍院と号し、前田家において大きな影響力を持った。

命名直前の文化的交流──文政4年の鷹司政熙江戸訪問

命名のわずか1年半前にあたる文政4年(1821)、加賀藩史料に極めて重要な記事がある。鷹司政熙(たかつかさまさひろ、准后)が江戸に下向し、前田家本鄉邸を訪問して真龍院と対面したのである。

是の年三月二十五日鷹司准后政公江戶表御下向…四月二日本鄉御屋敷御本宅御招請、眞龍院様御對顔被爲遊候なり。

『加賀藩史料』第13編 文政4年4月2日の条

この訪問時には歌の贈答も行われている。

老らくのまれなるけふのかげにつきぬちぎりや言の葉の種

文政4年、鷹司政熙の前田家本鄉邸訪問時の詠歌

文政4年時点で、鷹司政熙と前田家の間に活発な文化的交流が存在していたことが確認できる。竹澤御殿の完成を翌年に控えたこの時期、庭園の命名について相談が行われたとしても、何ら不自然ではない。

鷹司家命名説を支持する論拠の整理

論点根拠典拠
鷹司家は「摂家」に該当五摂家の一つ。政熙は関白経験者定信『花月日記』の「摂家のうち」と合致
前田家との姻戚関係斉広夫人・真龍院は鷹司政熙の娘『加賀藩史料』第11編 文化4年
命名直前の文化的接触文政4年4月に政熙が前田家本鄉邸を訪問『加賀藩史料』第13編 文政4年
命名の動機娘婿の隠居所庭園に雅名を贈ることは義父として自然状況的推論
漢学の教養摂関家は最高水準の漢学教育を受けており、李格非『洛陽名園記』を典拠にすることは自然鷹司家の「御教訓」の文体から推認
藩の公式記録に命名が不在竹澤の命名は詳細に記録されたが、兼六園は記録なし『加賀藩史料』全15編の検索結果

4. もう一つの視点──富田景周の関与の可能性

鷹司家説とは別の角度から、加賀藩の学者・富田景周の関与についても検討しておきたい。景周は知行2500石の上級藩士で、号は痴龍。『越登賀三州志』の著者として知られる加賀藩屈指の博識の学者である。加賀藩史料における景周の文政期の活動を整理すると、庭園命名に何らかの形で関わり得る立場にあったことが見えてくる。

時期活動内容命名との関連性
文政元年(1818)代表作『越登賀三州志』を藩に献上加賀藩の歴史・地誌に最も精通した人物
文政2年(1819)「蓮池考」を執筆。斉広の竹澤御殿構想に応じて蓮池庭の歴史を調査庭園の来歴を調べる依頼を斉広から受けていた
文政6年(1823)竹澤御殿の時鐘の鐘銘を撰文。78歳斉広が最も信頼する文人として殿閣関連の重要な文筆を担当

景周は文政2年に斉広から蓮池庭の歴史調査を命じられ、「蓮池考」を著している。これは竹澤御殿の構想段階で、庭園に関する学識を斉広に提供していたことを意味する。また文政6年には竹澤御殿の時鐘の鐘銘という、藩主の隠居所に関わる最も格式の高い文筆を託されている。

もっとも、定信の日記は命名者を「摂家のうち」と明記しており、藩士である景周が最終的な命名者であったとは考えにくい。しかし、斉広が庭園名を構想する過程で、李格非『洛陽名園記』の六勝の概念を景周から教示された可能性、あるいは景周が鷹司家への命名依頼を学問的に下支えした可能性は、状況的に否定できない。景周と鷹司家の間の直接的な交流を示す史料は現時点では確認されておらず、この点は今後の史料調査を進めたい。

5. 命名プロセスの復元──仮説的シナリオ

以上の史料と研究を総合すると、「兼六園」の命名は以下のようなプロセスで行われた可能性がある。

時期出来事典拠
文政元年(1818)6月竹澤御殿の造営に着手『加賀藩史料』第13編
文政2年(1819)5月富田景周が斉広の命で「蓮池考」を著し、庭園の歴史を調査長山直治『兼六園を読み解く』
文政4年(1821)4月鷹司政熙が江戸に下向し、前田家本鄉邸で真龍院と対面。文化的交流『加賀藩史料』第13編
文政5年(1822)前半竹澤御殿の完成が近づき、庭園の命名が検討される。鷹司家(摂家)の人物が『洛陽名園記』に基づき「兼六園」と命名か推定
文政5年(1822)9月20日松平定信が斉広から「兼六園」の扁額の揮毫を依頼される。定信は名の由来を知らず問い合わせる定信『花月日記』
文政5年(1822)11月15日隠居所を「竹澤御殿」と呼ぶよう正式告示『加賀藩史料』第13編
文政5年(1822)11月21日斉広隠居、斉泰が家督相続『加賀藩史料』第13編
文政5年(1822)12月16日斉広、竹澤御殿に移徒『加賀藩史料』第13編
文政6年(1823)3月殿閣が落成、能楽による祝賀『加賀藩史料』第13編
文政6年(1823)8月景周が時鐘の鐘銘を撰文『加賀藩史料』第13編

6. 「兼六園」はどこを指していたのか

命名者の問題と並んで、長山直治氏が提起した重要な論点がある。「兼六園」と命名されたのは、現在の兼六園全体ではなく、竹澤御殿に付属する「竹澤御庭」のことではなかったか、という問題である。

加賀藩史料を検索すると、「兼六園」の語はすべて後世の編者による注釈として出現する。

  • 「蓮池庭は後の兼六園」(第10編、寛政3年の条の注)
  • 「蓮池は今の兼六園」(第12編、文政2年の条の注)

藩政期の当事者が「兼六園」の語を使用した公式記録は、加賀藩史料の中には確認できない。本康宏史氏が指摘するように、「兼六園」の呼称は雅称のようなもので、通常は「竹澤御庭」「竹澤庭」と呼ばれていたのではないかとする長山氏の見解は、この史料状況と整合する。

この問題に関して、長山氏が明らかにした重要な物的証拠がある。蓮池庭と竹沢庭の境界には「水樋上門(水道上門)」と呼ばれる長屋門が設けられていた。門自体の幅は約5.5メートル、長屋を含めた総延長は約27メートルに及ぶ大きな門であった。長山氏は金沢市立玉川図書館奥村文庫の「竹沢御屋敷御門々々名目」(文久元年・1861)などの史料を検討し、この水樋上門こそが「兼六園門」と呼ばれた門であったことを突き止めた。すなわち、松平定信が揮毫した「兼六園」の大扁額(縦三尺・横九尺)は、この水樋上門に掲げられていたと考えられる。

水樋上門(水道上門)が描かれている。この絵は現在の紺屋坂側から見た水樋上門。この絵図を見ると本当に扁額がかかっていたのかという疑問が浮かぶ。出典:『蓮池庭図』(別名『兼六園古図』)

この扁額が門のどちら側の面に掲げられていたかが、「兼六園」の指す範囲をめぐる論争の焦点となっている。本康氏の論文によれば、長山説の発表後、額面は小立野側──すなわち竹沢庭側の面──に掲げられていたことから、門をくぐった先にある百間堀側の蓮池庭こそが「兼六園」だったのではないかとする説が浮上しているという(なお、本康氏自身はこの反論の提唱者ではなく、「その後の議論」として紹介しているにとどまる)。一方、長山氏は別の史料的根拠から、兼六園は竹沢庭を指していたと論じる。森田柿園は『金沢古蹟志』において「此の地〔兼六園のこと〕は、蓮池の後口地にて」と記し、兼六園を蓮池庭とは明確に区別して竹沢庭のこととして使用している。長山氏はこの森田柿園の記述や、藩士の日記における兼六園門の用例などから、兼六園とは水樋上門の奥に広がる竹沢庭──現在の七福神山や曲水、雁行橋(亀甲橋)のあたりまでの領域──を指していたと結論づけている。「兼六園」がどちらの庭を指していたかは、なお決着をみていない論点である。

水樋上門から竹沢御殿に向かってのエリア。このエリアが「兼六園」として認識して良いだろう。出典:『竹沢御殿之図』所蔵:石川県金沢城・兼六園管理事務所

万延元年(1860)、この水樋上門は蓮池庭と竹沢庭の一体化工事の中で撤去され、扁額は現在の正門にあたる蓮池門に移された。この時をもって初めて、蓮池庭と竹沢庭が一つの庭園空間となったのであり、蓮池庭を含む広い領域が「兼六園」と呼ばれるようになるのは、それ以降のことと考えられる。

蓮池庭を含むエリアが広く「兼六園」と呼ばれるようになったのは、明治期の庭園開放後のことと考えられる。天保8年(1837)頃に竹澤御殿が解体され、13代斉泰が霞ヶ池の拡張と蠑螺山の築造を行い、蓮池庭と竹沢庭が一体化して現在の規模になったが、「兼六園」が公式の名称として定着するのは、明治7年(1874)の公園開放以降である。

7. 結論と残された課題

加賀藩史料と近年の研究成果を突き合わせた結果、「兼六園」の命名プロセスについて以下のことが明らかになった。

  1. 松平定信は命名者ではない。定信の役割は扁額の揮毫者にすぎず、命名の由来すら当初は知らなかった。
  2. 命名者は「摂家」の人物である。定信自身の日記がこれを明記している。
  3. 鷹司家の蓋然性が高い。斉広夫人・真龍院の実家であり、文政4年に活発な文化的交流が確認される鷹司政熙(元関白・准后)が有力な候補である。
  4. 富田景周が学問的アドバイザーとして関与した可能性がある。蓮池庭の歴史調査を担い、竹澤御殿の鐘銘も撰文した景周が、『洛陽名園記』の概念を斉広に教示した可能性は高い。
  5. 命名が藩の公式記録に残らなかったこと自体が、藩外からの命名を示唆している。竹澤の命名過程が詳細に記録されたのと対照的である。

残された課題は多い。鷹司政熙本人による命名なのか、あるいは子の政通(文政6年に関白就任)など別の鷹司家の人物によるのか。景周と鷹司家の間に直接の交流があったのか。そして「兼六園」が当初指し示していたのは竹澤庭なのか、蓮池庭なのか、あるいは両方だったのか。

これらの問いに答えるためには、鷹司家側の史料(書簡・日記など)や、金沢市立玉川図書館に所蔵される加越能文庫の未利用史料のさらなる調査が必要である。加賀藩史料という一次史料は、直接的な回答こそ与えないものの、命名者推定の基盤となる「関係の構造」と「時間軸」を明確に示してくれた。200年前の名園の名づけ親をめぐる探究は、なお途上にある。

主要参考文献

  • 前田育德會編『加賀藩史料』全15編・編外備考(清文堂、昭和4年〜昭和18年初版、昭和45年複刻版)
  • 長山直治『兼六園を読み解く──その歴史と利用』(桂書房、2006年)
  • 本康宏史「『兼六園』の呼称をめぐる若干の考察」(『加賀藩研究を切り拓く 長山直治氏追悼論集』桂書房)
  • 岡嶌偉久子・山根陸広「翻刻『花月日記 松平定信自筆』(二十四)文政五年五月~十二月」(『ビブリア』138号、2012年)
  • 小川孜成『兼六公園誌』(1894年)
  • 石川県公園事務所編『兼六園全史』(1976年)