なぜ金沢城(天守閣)がないのか?雷に打たれ焼失した金沢城天守閣・慶長7年(1602年)消失の1日を明らかにする

なぜ金沢城(天守閣)がないのか?雷に打たれ焼失した金沢城天守閣・慶長7年(1602年)消失の1日を明らかにする

公開

目次

金沢の街を歩き、金沢城公園を訪れた際、ふと不思議に思うことはありませんか? 立派な石垣や復元された美しい門があり、案内板には「金沢城址」と記されているのに、お城の象徴であるはずの「天守閣」が見当たりません。

実は、かつての金沢城には壮麗な天守閣がそびえ立っていました。しかし、それは江戸時代のごく初期に、凄まじい雷火によって失われてしまったのです。今回は、古文書に記された生々しい記録を紐解き、金沢の空から天守が消えた「あの日」の物語に迫ります。

1. 惨劇の情景:雪の夕暮れに響いた「死の予兆」

古文書(『三壺記』など)が伝える天守焼失の日。金沢では一年で最も寒さが厳しく、深い雪が町を包み込む真冬の出来事でした。その日の夕方(暮れ六つ=午後5時頃)、城内では「宇賀祭(うがまつり)」が執り行われていました。五穀豊穣や城の安泰を願う神聖な祈りの時間。しかし、その静寂を切り裂いたのは、金沢の冬特有の激しい雷「ブリ起こし」でした。 吹き荒れる強風と舞い散る雪の中、突如として巨大な雷電が天守閣を直撃。火の手は瞬く間に燃え広がり、本丸の御殿までもが赤々と夜空を照らしました。

絶望のカウントダウン:1時間の地鳴り

この火災が金沢の人々にとって「トラウマ」となったのは、その後に起きた「薬蔵(火薬庫)の大爆発」ゆえです。 落雷から約1時間(半時)もの間、城内からは地を這うような不気味な音が鳴り響き続け、町中が立ち込める煙で暗闇に包まれたといいます。何かが起きる、という恐怖が街を支配した後、ついに「大霹靂(だいへきれき)」、すなわち山が崩れ落ちるような轟音とともに大爆発が発生しました。

想像を絶する爆風の傷跡

爆風の威力は、現代の私たちが想像する火災の規模を遥かに超えていました。

  • 重臣の最期: 消火活動を指揮していた重臣・加藤宗兵衛(重廉)父子は、飛び散る塩硝(火薬の原料)と炎に包まれ、壮絶な殉職を遂げました。
  • 吹き飛ばされた遺体: 前田美作の屋敷を越え、さらに遠くにある西方寺の屋根の上には、長刀を持ったままの姿勢で吹き飛ばされてきた遺体が残されていた。この生々しい記録は、当時の人々が目撃した爆発の凄まじさを今に伝えています。

2. 禁忌の建材:なぜ「神木の祟り」と囁かれたのか

事件後、民衆の間で急速に広まったのが「神木の祟り」説です。

天守建設の際、能登の黒津船(くろつぶね)浦にある神社の神木を伐採し、天守の重要な構造材である「虹梁(こうりょう)」に使用したことが原因だと信じられていました。

「黒津船の方角から雷が飛んできた」

人々は、伐り倒された神木の怒りが天火となって、真っ直ぐに城を焼き払いに来たのだと噂し合いました。実は藩祖・前田利家の時代から、金沢城は度々落雷に見舞われており(利長の幼少期にも至近距離での落雷記録がある)、この土地特有の気象現象への恐怖が、神仏への畏怖と結びついた結果といえます。

金沢城炎上までの当日のタイムライン

時刻(目安)状況・出来事(要点)詳細(補足情報)
16:30頃祭りの最中城内で「宇賀祭」。外は強風、薄雪が混じり始める。
17:00頃落雷 → 天守炎上暮れ六つの鐘の頃。激しい雷鳴とともに天守へ落雷し、短時間で火が広がる。
17:15頃避難誘導が始まる前田利長が石垣上で指揮を執り、玉泉院らを避難させる。
17:30頃火薬庫へ延焼炎が「薬蔵(鉄砲の薬蔵)」へ及ぶ。町が煙で暗転し、地鳴りのような音が響き始める。
18:00頃大爆発落雷から約1時間。火薬庫が爆発し、轟音と爆風が城内外を襲う。
深夜鎮火 → 被害判明加藤宗兵衛らの負傷、西方寺方面への遺体飛散など、被害の実態が明らかになる。
翌日混乱の抑制利長が「落ちている道具や刀は届け出よ」と命じ、混乱・盗難を防ぐ体制を敷く。

3. 天守閣消失は慶長7年と10年、どちらが「真実」か

歴史学的な視点で見ると、この事件は「いつ起きたのか」という大きな問いを投げかけます。

記録の比較:なぜ年号が分かれたのか

古文書によって、以下のように記述が分かれています。

史料名記録された年号特徴
寛永諸家系図伝慶長7年(1602)幕府に提出した公式記録
三壺記慶長10年(1605)「雪中の雷」「爆発」など描写が極めて具体的
金澤古蹟志慶長7年説を採用各説を検証した上で、行政文書との整合性を重視。

現代の結論:「1602年」が採用される理由

現在、金沢城の天守焼失が1602年とされる最大の根拠は、当時の藩主・前田利長が火災の翌日(慶長7年11月1日)に出した「触書(命令書)」が現存しているためです。

「城内の落とし物を拾った者はすぐに届け出よ」という生々しい行政文書の日付が1602年である以上、大火があったのはこの年で間違いありません。

では、なぜ慶長10年という詳細な記録(三壺記など)が生まれたのでしょうか? 歴史家は、「実際に起きた凄惨な事件の記憶(1602年)」が、後世に書き写される過程で他の出来事や年号と混同された、あるいは「雪中の雷」という特異な天候が人々の記憶の中で特定の年と結びついたのではないかと推測しています。

4. 結末:天守を捨てた加賀藩の選択

この大爆発と焼失以降、金沢城に天守が再建されることはありませんでした。

  • 政治的配慮: 徳川幕府への忠誠を示すため、あえて軍事的な象徴である天守を再建しなかった。
  • 実利の優先: 度重なる火災に鑑み、本丸を放棄して二ノ丸を藩政の中心へと移した。

金沢城に天守がないのは、加賀百万石の「不運」の結果ではなく、雷火という自然の脅威と、幕府という政治の脅威の間で生き残るための、前田家の賢明なリアリズムの象徴でもあるのです。

記述と出典一覧

記事のセクション主な記述内容根拠となる主な史料・古文書
1. 惨劇の情景慶長10年11月晦日(宇賀祭)の夕刻、強風と雪の中での落雷。火薬庫爆発までの「半時」の猶予と轟音。『加賀藩史料 第一編』(慶長10年10月30日条)
『金澤古蹟志 巻三』(『三壺記』の引用記述)
加藤宗兵衛(重廉)父子の爆発による負傷と死。西方寺の屋根へ遺体が吹き飛ばされた凄惨な被害。『加賀藩史料 第一編』
『金澤古蹟志 巻三』
2. 禁忌の建材能登・黒津船浦の神木を天守の虹梁(こうりょう)に使ったことによる「祟り説」。前田利家の時代からの落雷記録。『加賀藩史料 第一編』(黒津船の神木説)
『金澤古蹟志 巻三』(『菅家見聞集』引用、利家書簡の翻刻)
3.  天守閣消失は慶長7年と10年、どちらが「真実」か慶長7年(公式記録)と慶長10年(三壺記等の伝承)の年号の相違。『加賀藩史料 第一編』(『三壺記』と『寛永系図』の比較)
『金澤古蹟志 巻三』(諸説の検証)
【1602年確定の根拠】 火災翌日の慶長7年11月1日付で出された、前田利長による遺失物回収の命令書(判物)。『加賀藩史料 第一編』(利長判物の全文掲載)
『金澤古蹟志 巻三』(『象賢紀略』等の裏付け)
4. 結末と選択天守を再建せず「三階櫓」で代用した経緯。本丸の相次ぐ火災による二ノ丸への居所移転。『加賀藩史料 第一編』(三階櫓への移行記録)
『金澤古蹟志 巻三』(寛永8年の大火と二ノ丸移転の経緯)

関連記事