目次
昭和の幕開け、華やかな「大正デモクラシー」の余韻が消え去らぬうちに、日本は未曾有の経済的暗雲に覆われた。金沢もその例外ではなかった。昭和5年に端を発した「昭和恐慌」の荒波は金沢市民の生活を根底から揺さぶった。
かつて職人たちの槌音が響き、絹織物が街を彩った金沢は、瞬く間に「沈黙の街」へと変貌した。企業は倒産し、農民は街頭で米を投げ売り、行き場を失った労働者たちの怒号が市街に響き渡る。それはまさに、金沢の歴史における「暗黒の時代」だった。
絶望の淵に立たされた金沢が選んだのは、座して死を待つことではなく、不況という巨大な壁に真っ向から立ち向かい、街の再興と近代化を一気に推し進めるための壮大なプロジェクト。それが昭和7年の「産業と観光の大博覧会」だった。
本稿では、以下の3つのフェーズを通して、金沢がいかにしてどん底から這い上がり、現在に至る近代都市としての礎を築いたのか、その熱き軌跡を詳述する。
- 【昭和5年】 政策の誤算と市場の暴落が招いた「底割れ」の真実
- 【昭和6年】 噴出する社会不安と、極限状態で模索された救済の策
- 【昭和7年】 逆風下の断行。博覧会という「特効薬」がもたらした光と熱狂
どん底の停滞を、いかにして未来への投資へと転換させたのか。昭和の金沢人たちの不屈の意志と、都市再生までの経緯をまとめた。
1. 昭和5年:複合的要因が招いた「昭和恐慌」とは
昭和5年(1930年)、金沢の経済はまさに「底」が抜けたような状態に陥った。この深刻な不況は、政府の政策的な誤算と国際情勢の悪化、そして市場の不運が重なり合った、逃げ場のない複合的な恐慌だった。
金解禁という「劇薬」が招いた産業の窒息
直接的な引き金となったのは、同年1月11日に浜口雄幸内閣が断行した「金解禁(金の輸出解禁)」だった。
政府は為替の安定と経済体質の強化を狙ったが、前年に発生した世界恐慌の荒波が日本を飲み込む最悪のタイミングでの実施となった。

特に金沢の基幹産業である繊維産業(紡績、織物)は壊滅的な打撃を受けた。金解禁による円高で輸出競争力を失い、さらに世界的な需要減退が重なったことで、生糸や人絹の価格、いわゆる「糸価(しか)」が大暴落した。錦華紡績(後の大和紡績)などの大工場ですら、2,000人規模の全従業員を対象とした1割から2割5分にも及ぶ大幅な賃金カットや、人員整理を強行。県下の工場では操業短縮や休業が相次ぎ、工員たちの生活基盤は根底から崩れた。
「豊作貧乏」が農村を襲った悲劇
産業界の不振に追い打ちをかけたのが、皮肉にも農村部を襲った「大豊作」だった。本来なら喜ぶべき収穫が、不景気による購買力低下と重なったことで、激しい価格破壊を招く「豊作貧乏」という悪夢に変わった。
白米1升の価格は20銭を割り込み、農家は生産費すら回収できない窮地に立たされた。10月28日には、石川郡安原村(現・金沢市)の農家が、金沢市内の白銀町の街灯の下で「1升17銭5厘」という札を掲げ、米を投げ売りする光景が見られた。丹精込めて育てた米を叩き売る農家の姿は、地方経済の行き詰まりを象徴する悲痛な出来事として語り継がれている。これにより農村の購買力は完全に消滅し、その影響は都市部の商店や百貨店へと連鎖的に波及していった。
「鉱山王」横山家の破産と地域経済の漂流
昭和5年12月24日、金沢経済界を揺るがす最大の衝撃が走った。加賀藩以来の家柄で、尾小屋鉱山などを経営し「鉱山王」と呼ばれた名門・横山家の横山鉱業部が破産宣告を受けたのだ。
金沢の近代化を牽引し、地域経済の屋台骨であった横山家の没落は、単なる一企業の倒産ではなかった。それは金沢における「一つの時代の終焉」を告げると同時に、地域社会に深刻な信用不安を撒き散らした。これを機に伝統産業の不振も極まり、特に高級品である金箔は需要が完全に途絶。職人街からは金沢の日常の音であった「箔打ちのツチ音」が消え、街全体が不気味な静寂に包まれた。


デフレの象徴「五厘硬貨」と極限の節約
物価の下落(デフレ)は、貨幣の価値を異常なまでに押し上げた。それまで計算上の単位に過ぎず、日常生活からは姿を消していた「五厘硬貨」が、再び切実な必要性を持って復活した。
日用品のわずかな端数すら切り捨てられないほど、市民の家計は逼迫していた。金沢商工会議所が五厘硬貨の復活運動を展開した事実は、当時のデフレがいかに深刻で、人々の生活がいかに細かな単位での節約を強いられていたかを物語っている。一円という貨幣の重みが、現代の感覚を遥かに超えるほど巨大化した時代だった。
2. 昭和6年:激化する争議と行政の苦境
昭和6年(1931年)に入ると、前年から続く経済の停滞はもはや限界点に達していた。生活の困窮は単なる「不況」という言葉では片付けられないほど深刻化し、人々の怒りや不安は、労働争議や行政への反発という形で激しく噴出した。
労働争議の火の手:生き残りを賭けた抵抗
賃下げや一方的な解雇が常態化するなか、労働者たちは団結して立ち上がった。かつては平穏だった金沢の街角で、警察が出動するほどの激しい衝突が相次いだ。
- 中村ガラス工場の長期スト: 7月、長町川岸に位置した中村ガラス工場で、一方的な賃下げに反対するストライキが発生した。この争議には「労農党」などが支援に回り、単なる一工場の問題を超えて、不況に苦しむ労働階級の象徴的な闘争へと発展し、長期化した。
- 中村兄弟印刷所の乱闘事件: 同じく7月、中町(現在の大手町、尾張町1丁目)の中村兄弟印刷所でも賃下げ反対のストライキが決行された。ここでは石川自由労組などが応援に加わり、介入しようとした警官隊と激しい乱闘に発展。静かな職人の街・金沢で検挙者が出るという事態は、当時の社会がいかに殺気立っていたかを物語っている。
- 聖域なきリストラと社会不安: 失業対策として行われていた「南端国道(野町〜有松間)」の建設現場では、朝鮮人労働者たちが登録制度の廃止を求めてデモを敢行。さらに10月には、市水道事務所の閉鎖に伴い、全職員の約4割にあたる34名が一度に解雇された。行政機関ですら容赦ない人員整理を断行せざるを得ないほど、事態は逼迫していた。
行政の苦渋:新税「戸数割」の激震と公益質屋
財政破綻の危機に瀕した金沢市は、新たな財源確保と市民救済という二律背反する課題に直面していた。
- 市会を揺るがした「戸数割」騒動: 深刻な財源不足を補うため、金沢市は「戸数割(こすうわり)」という新税の導入を決定した。これは、借家住まいで家屋税を免れていた資産家などからも徴収し、税負担の均衡を図る狙いがあった。しかし、これに反対する勢力が激しく抵抗し、市会の議場で反対ビラが撒かれるという、金沢市会史上初の大騒動へと発展した。
- 最後の砦「市営公益質屋」: 庶民の生活を守るための緊急避難的な措置も取られた。5月、生活困窮者に対して低金利で資金を貸し出す「市営公益質屋」が設立された。日々の糧を得るために家財道具を預けにくる市民の列は絶えず、当時の金沢市民がいかに爪に火を灯すような暮らしを強いられていたかがうかがえる。
商業の光と影:武蔵ヶ辻の変貌と「三越」進出

出典:『金澤写真帳 昭和8年』昭和8年, 所有:小西 裕太
不況の真っ只中にありながら、金沢の商業地図を塗り替える大きな地殻変動が起きた。
昭和5年11月15日、武蔵ヶ辻に建設された「金沢ビルディング」内に、「三越百貨店金沢支店」が開店した。地元呉服商組合などは、中央資本の進出による死活問題を懸念して激しい阻止運動を展開したが、いざ幕が開くと店内は「満員札止め」となるほどの熱狂に包まれた。 デフレで物価が下がるなか、人々は百貨店という「新しい時代の華」に、束の間の夢と救いを見出したのかもしれない。しかし、その陰で小松に開店した百貨店がわずか半年で休業に追い込まれるなど、不況下の生存競争は極めて残酷なものだった。
昭和7年への伏線:どん底で芽吹いた「逆転」の構想
昭和6年9月、満州事変が勃発し、世情はさらに「非常時」の色を強めていった。兼六園の借地料値上げ(『兼六園全史』より)やカフェーの流行に対する取り締まり強化など、街には重苦しい空気が漂い続けていた。
しかし、この暗雲を吹き飛ばすべく、市勢振興調査会のメンバーを中心とした「大博覧会」の開催計画が、裏側で着実に、そして力強く動き始めていた。それは、苦渋の決断を繰り返してきた吉川市長と金沢商工会議所が、街の命運を懸けて投じた最後にして最大の「勝負手」だった。
3. 昭和7年:起死回生の大博覧会と近代都市への変貌 ― 絶望を希望へ塗り替えた決断
昭和5年の経済底割れ、そして昭和6年の社会的な混迷。出口の見えないトンネルに迷い込んだ金沢市が、起死回生の「特効薬」として打ち出したのが、昭和7年(1932年)の「産業と観光の大博覧会」だった。これは単なる一時的な祭典ではなく、街の存亡を懸け、都市の構造そのものを造り変える巨大な国家的プロジェクトだった。
満州事変の逆風下で下された「執念」の断行
博覧会の準備が佳境を迎えていた昭和6年9月、満州事変が勃発した。日本中が戦争の足音に震撼するなか、世論は一変する。「非常時局に浮かれた行事など言語道断」という厳しい批判や中止勧告が相次ぎ、一時は工事が中断される事態にまで追い込まれた。
しかし、当時の吉川一太郎市長の意志は揺るがなかった。「昭和恐慌によるこの沈滞を打ち破るには、これしかない」と開催を強行。時局に合わせ「国防」の要素を展示に加えることで反対勢力を納得させ、開催へとこぎつけた。この決断がなければ、その後の金沢の発展は数十年遅れていたかもしれない。
街を埋め尽くした「熱狂」と近代化の遺産
昭和7年4月12日から55日間にわたり開催された博覧会は、目標を大幅に上回る約57万人もの入場者を記録し、驚異的な成功を収めた。
- 経済の循環: 金沢駅の乗降客数は平時の倍増を記録し、冷え切っていた市内の旅館や百貨店には、昭和五年以来となる活気が戻った。
- 都市基盤の刷新: この博覧会最大の功績は、会場整備に併せて行われたインフラ整備にある。片町や尾張町といった主要幹線のアスファルト舗装、上水道の拡張、さらに橋梁の永久橋化。これらはすべて、この博覧会を「梃子(てこ)」にして一気に進められたものだった。
現在の金沢の都市骨格は、まさにこの時、不景気のどん底で必死に未来を模索した先人たちの手によって形作られたのである。
さいごに:暗黒の3年を経て、近代都市「金沢」へ
昭和5年から昭和七年に至る金沢の歩みは、まさに「破壊と再生」の記録だった。
金解禁に端を発したデフレと不景気、米価暴落による農村の窮乏、そして「鉱山王」横山家の破産。昭和五年に始まったこの昭和恐慌の「三重苦」は、金沢の古い経済構造を一度粉々に打ち砕いた。しかし、その瓦礫の中から立ち上がるためのエネルギーとなったのが、博覧会という壮大な挑戦だった。
金沢は単なる歴史都市であることを超え、近代的な基盤を備えた都市へと脱皮した。逆風の中で下された決断と、その結果として築かれた街のインフラは、その後の発展の揺るぎない礎となった。