目次
石川県が誇る「加賀友禅」の鮮やかな色彩。そして、ナイキやアディダスといった世界的ブランドのユニフォーム、モンクレールのダウンジャケット、さらにはザ・ノース・フェイスの超軽量ウェア。世界のアスリートや一流メゾンが愛用する高機能素材の多くは、実はここ石川県で生まれている。
小松マテーレが手がける世界最高峰の染色・撥水加工や、カジグループが誇る「世界最軽量」の極細糸織物、そして国内随一の生産体制を誇る丸井織物のハイテクテキスタイル。これら「繊維の国・石川」が世界を席巻する圧倒的な実力を、我々は今や当たり前のように享受している。しかし、なぜ石川県がこれほどまでに繊維産業の集積地となったのか、その真の背景を知る者は少ない。
かつて、刀を捨てた武士たちが自ら機を織り、万国博覧会で喝采を浴び、恐慌の荒波に揉まれながらも「絹の白さ」を守り抜いた人々がいた。現在のハイテク繊維の成功は、決して偶然の産物ではない。そこには、1500年以上にわたる挑戦と、伝統を革新へと変えてきた壮大なドラマが隠されている。
その中核を担った「加賀羽二重」の足跡を辿り、繊維の国のルーツをまとめた。
要約
加賀羽二重は石川県を代表する白生地で、伝説では崇神天皇期に皇女が養蚕と機織を伝えたとされる。平安期には「加賀絹」として宮中に献上され、江戸期は前田利常の奨励で全国的なブランドへ発展した。明治維新での士族困窮を受け、県は1880年に半官半民の興産社を設立し、西陣や桐生・足利の技術を導入。並行して1870年代の万博出展を機に世界へ飛躍し、1884年の「輸出羽二重」成立を経て明治30年代には世界的な外貨獲得産業となった。その後、津田式力織機の普及による量産化と1900年の大暴落、大正期の「ガチャ万景気」とレーヨンによる拡大、そして1931年の昭和恐慌という激動を経験。これら波乱の歩みが、現在の高機能テキスタイル産地へと連続している。
1. 伝統の夜明け:皇女の伝説から藩政期の栄華へ
石川県の機業(絹織物業)の歴史を紐解くと、それは神話と歴史が交差する悠久の彼方へと繋がっています。この地に息づく織物の文化は、単なる産業の枠を超え、石川の精神的支柱として古くから受け継がれてきた。 その起源は、今から二千年も遡る第10代崇神天皇の時代にあると伝えられています。伝説によれば、この地に養蚕と機織の技を初めて伝えたのは、高貴な血を引く皇女であったとされています。この神秘的な始まりを経て、加賀の絹織物は着実にその質を高めていきました。平安時代にはすでに「加賀絹」の名が都にまで轟き、宮中御用達の品として献上されるほど、類まれな品質を誇る至宝へと成長を遂げていた。 そして江戸時代、加賀百万石の黄金期において、その地位は決定的なものとなった。
名君として名高い3代藩主・前田利常は、単なる工芸に留まっていた機業を藩の重要な産業として位置づけ、強力な奨励策を打ち出した。彼の英断によって、加賀の絹織物は全国的なブランドとしての不動の地位を築き上げる源流となった。 当時の文化人たちの記録にも、その名声は色濃く刻まれている。
江戸時代の随筆『一言一話』や園芸書『花壇綱目』などの文献には、「加賀紅梅」といった珠玉の織物と並び、加賀絹が日本を代表する名産として称賛されている。藩政時代を通じて培われた職人の誇りと精緻な技術こそが、後の明治維新という激動の時代において「加賀羽二重」が世界へと飛躍するための、強靭な礎となった。
- 古代の伝説: 崇神天皇の時代、皇女がこの地に養蚕と機織の技術を伝えたという伝説があり、平安時代にはすでに「加賀絹」の名で宮中御用達の品となっていた。
- 藩政期のブランド化: 江戸時代、加賀百万石の3代藩主・前田利常が産業を奨励したことで、その地位は不動のものとなります。文献『一言一話』や『花壇綱目』にも「加賀紅梅」と並び名産として記され、加賀は日本有数の絹産地として知られるようになった。
2. 明治維新と「興産社」:武士たちが握った機屋の杼(ひ)
明治維新という激動の荒波は、加賀の地で長く守られてきた機業の歴史に、かつてない危機と劇的な転換をもたらした。廃藩置県によって加賀藩という後ろ盾を失い、さらに「家禄(給与)」までをも奪われた士族、特に下級武士である一代卒(いちだいそつ)の家族たちは、路頭に迷うほどの困窮に直面した。この誇り高き人々をいかに救済し、新たな時代に相応しい産業へと導くか。県政にとって、まさに待ったなしの状況だった。
こうした中、明治13年(1880年)、金沢の高岡町に産声を上げたのが「興産社(こうさんしゃ)」だった。これは石川県が政府から多額の資金を借り受けて設立した、全国でも珍しい「半官半民」の巨大工場だった。その目的はただ一つ、かつて刀を携えていた士族の子女たちに機織りの技術を授け、彼女たちの手によって新たな産業の柱を打ち立てることだった。
興産社の挑戦は、当時の最先端技術の粋を集めたものだった。京都の西陣や群馬の桐生・足利といった織物の先進地から超一流の技術者を招聘し、当時まだ珍しかったフランス式の「バッタン機」や、複雑な模様を織り成す「ジャガード機」をいち早く導入した。かつては名門の家庭で大切に育てられてきた娘たちが、不慣れな手つきで、しかし武士の矜持(きょうじ)を胸に懸命に機を織る姿。それは、古い封建社会が終わりを告げ、近代日本が産声を上げる瞬間の、最も象徴的な光景の一つであったと言える。
しかし、理想を掲げた興産社も、度重なる経営難という現実に直面し、明治23年(1890年)に惜しまれつつその幕を閉じた。興産社の10年間は決して無駄ではなく高度な近代技術を身につけた従業員たちは、解散とともに金沢、小松、大聖寺、根上といった県内各地へと散らばっていった。彼らが各地で「技術の伝道師」となり、次々と新しい機屋(はたや)を興したことこそが、後に石川県を世界的な羽二重産地へと成長させる「真の礎」となった。
- 興産社(こうさんしゃ)の設立: 明治13年(1880年)、金沢の高岡町に「興産社」が誕生します。これは県が政府から資金を借り受けて設立した半官半民の工場でした。
- 技術の移植: 京都の西陣や群馬の桐生・足利から一流の技術者を招き、最新の「バッタン機」や「ジャガード機」を導入。慣れない手つきで機を織る士族の娘たちの姿は、時代の変わり目を象徴する光景でした。
- 「種」の拡散: 経営難により明治23年には閉鎖に追い込まれますが、ここで技術を習得した従業員たちが金沢・小松・大聖寺など県内各地に散らばり、後の巨大産地の基礎を築くことになります。
3. 世界へ羽ばたく:万博の喝采と輸出の拡大
興産社による国内基盤の整備と前後して、加賀羽二重は国内の一名産品という枠を飛び越え、「世界のハブタエ」へと劇的な飛躍を遂げることになる。その決定的な転換点となったのが、明治初期から海を越えて開催された万国博覧会(万博)への積極的な出展だった。
明治9年(1876年)のフィラデルフィア万博、そして明治11年(1878年)のパリ万博。円中孫平(まるなか まごへい)ら地元の先駆者たちが送り出した羽二重は、その繊細で滑らかな美しさによって世界に衝撃を与えた。この成功は単なる名誉に留まらず、海外のバイヤーから大量の注文を勝ち取るという実利をもたらし、石川県の機業が輸出産業へと脱皮する確かな足がかりとなった。
さらに世界市場を席巻するため、明治17年(1884年)、小松の岸本利助らはフランス式の織機を模造し、海外ニーズに合致した幅広の「ハンカチ地」を完成させた。これが本格的な「輸出羽二重」の幕開けとなり、明治30年代には輸出先は欧米のみならずインドやオーストラリアへも拡大。加賀の白生地は世界中を席巻し、石川県を名実ともに「世界の繊維産地」へと押し上げた。
- 世界からの注目: 明治9年のフィラデルフィア万博、明治11年のパリ万博。円中孫平らが出品した羽二重は、その繊細な美しさで世界を驚かせ、大量の注文を勝ち取ります。
- 輸出羽二重の誕生: 明治17年、小松の岸本利助らがフランス式の織機を模造し、幅広のハンカチ地を織り始めたことで、本格的な「輸出羽二重」の歴史が幕を開けました。明治30年代には、欧米のみならずインドやオーストラリアへも大量に輸出されるようになります。
4. 技術革新の英雄たち:手織りから機械織りへの大転換
こうして世界へ販路が広がる中、興産社の解散によって各地へ散らばった「技術の種」は、民間の手によって驚異的な機械化を遂げていく。明治後半、石川県の機業はそれまでの手作業の限界を打ち破り、近代的な工業へと飛躍する「大転換期」を迎えた。
この変革の象徴となったのが、金沢の津田米次郎。彼は独自の「津田式力織機」を完成させ、それまで職人の勘に頼っていた機織りを劇的に機械化しました。この発明は、産地全体の生産力を底上げする画期的な転換点となり、手織りから機械織りへの移行を一気に加速させました。
また、大聖寺の篠原藤平は、世界市場で求められた厚手羽二重の技術や、織機を制御する「チャンキリ」を開発。彼はその特許を独占せず、「業界全体の発展」のために広く公開した。さらに、根上の吉岡藤左衛門や小松の新田甚左衛門らが大規模工場を建設し、精練事業までを整備したことで、石川県の機業は世界市場と渡り合うための強固な「産業インフラ」を完成させたのである。
- 津田米次郎(金沢): 「津田式力織機」を完成させ、それまで手作業だった機織りの機械化を牽引しました。
- 篠原藤平(大聖寺): 厚手の羽二重を織る技術や、織機を止める「チャンキリ」と呼ばれる装置を開発。特許を独占せず業界に公開したことで、産地全体の発展に多大な貢献をしました。
- 大規模化の推進: 吉岡藤左衛門(根上)や新田甚左衛門(小松)らが大規模工場を建設し、精練事業を整備したことで、工業としての体制が整いました。
5. 狂乱の「ガチャ万」と新素材レーヨンの衝撃
機械化と量産体制の確立を経て、第一次世界大戦(欧州大戦)が勃発すると、業界は未曾有の熱狂、いわゆる「ガチャ万(がちゃまん)景気」に包まれた。織機を「ガチャン」と一織りすれば「万」単位の金が儲かると言われたこの時代、産地には昼夜を問わず機械音が響き渡り、人々の暮らしは一変しました。 この繁栄を加速させたのが、大正時代に登場した新素材「人絹(レーヨン)」だった。
地元の機業家たちはこれをいち早く取り入れ、絹と人絹を組み合わせたハイブリッドな形態へと劇的に転換。大正6年(1917年)頃には、先行していた他県の産地を追い抜くほどの圧倒的な勢いを見せるに至った。
しかし、あまりの急成長は深刻な粗製濫造(そせいらんぞう)を招き、ブランドの信頼を揺るがす危機をもたらしました。この事態に対し、業界は「羽二重検査所」の設立や厳格な取締規則の制定を断行。厳しい品質管理を導入することで、再び世界に誇れるブランドへと引き戻した。
- 新しい風「人絹(レーヨン)」: 大正時代、天然の絹に代わる新素材「人絹(レーヨン)」が登場。石川の機業家たちはこれをいち早く取り入れ、絹・人絹織物業としてさらなる発展を遂げ、大正6年頃には先進地を追い越す勢いを見せました。
- 品質の低下と検査: 「作れば売れる」状況による粗製濫造に対抗するため、県内には「羽二重検査所」が設立され、厳しい品質管理が行われるようになりました。
- 「ガチャ万(がちゃまん)」とは: 大正から昭和初期、WWIによる世界的な需要増と力織機の普及を背景とした空前の好景気を指し、一織りで万の金が儲かるほどの勢いを象徴する言葉です。
6. 天国と地獄:相場暴落と昭和恐慌の試練
しかし、こうした繁栄の裏側では、常に凄まじい「影」が産地を飲み込もうとしていた。産地の人々が自らの商売を「キヌ着たり、コモ着たり(成功して絹を着るか、失敗して筵を纏うか)」と呼んだように、業界は激しい相場変動に翻弄され続けてきた。 その試練は、すでに明治後半から始まっていた。機械化が進んだ明治33年(1900年)、前年のブームによる過剰投資が仇となり、相場が暴落。金沢市内の全織機が停止するという事態に陥った。
そして決定的な打撃となったのが昭和初期の世界恐慌(昭和恐慌)だった。かつて「ガチャ万」を支えたレーヨン相場が壊滅的に暴落、昭和6年(1931年)には能美郡を中心に織物問屋が相次いで倒産。業界は息の根を止められかねないほどの困窮を味うこととなった。この時に味わった苦境への警戒心が、後の時代における堅実な品質管理や、特定の素材に依存しない多角的な技術開発の源泉となった。
- 明治33年の大恐慌: 明治32年のブームで新規参入が相次いだ翌年、相場は大暴落。金沢市内の全織機が停止するほどの事態となりました。
- 昭和恐慌の壊滅的打撃: 昭和初期の世界恐慌は、特にレーヨン相場を直撃。昭和6年(1931年)には能美郡の織物問屋が相次いで倒産し、壊滅的な打撃を受けました。
7. 関連産業の共鳴:金箔・染色との結びつき
加賀羽二重の隆盛は、金箔や染色といった金沢が誇る他の伝統工芸とも深く共鳴し合った。金箔製造においては、羽二重を彩るための需要が爆発的に増えたことで、藩政時代からの「隠し打ち」技術が一気に開花。金沢の金箔は全国市場を独占するまでになり、織物と金箔が両輪となって経済を支えた。また、染色技術においても、最高峰の白生地である羽二重をいかに美しく染めるかという探求が、後の「加賀友禅」の洗練された美意識を形作る礎となる。 このように、羽二重を中心に周辺産業が互いを刺激し合った「産業の共鳴」こそが、加賀を唯一無二の「工芸の都」へと押し上げたのである。
- 金箔の独占: 織物の装飾に使われる金箔は、藩政時代からの「隠し打ち」技術により、金沢が全国市場を独占するまでになりました。
- 染色の進化: 白生地の最高峰である羽二重を美しく染め上げる技術は、後の加賀友禅などの発展にも大きな影響を与えています。
さいごに:受け継がれる「石川の繊維」の精神
加賀羽二重の歴史を辿ることは、石川県そのものの不屈の歩みを辿ることに他ならない。それは古代の伝統を守りつつ、明治の士族が刀を杼(ひ)に持ち替え、大正の機業家が新素材に挑み、昭和恐慌から這い上がってきた「変化し続ける力」の記録。今日、石川県が世界屈指の高機能テキスタイル産地、工芸の国として活躍しているのは、加賀藩から先人たちの志と磨き抜かれた技術のDNAが、今も脈々と受け継がれているからに他ならない。
人物・組織まとめ
| 年代・年号 | 人物・組織 | 主な功績・出来事 |
| 江戸時代(3代藩主) | 前田利常 | 産業を奨励し、加賀絹が全国的な名産としての地位を確立する礎を築く。 |
| 明治9年(1876) | 円中孫平 | フィラデルフィア万博に出品。世界的な評価を得て輸出の道を開く。 |
| 明治13年(1880) | 興産社(こうさんしゃ) | 金沢に設立。士族授産のため最新技術(バッタン機等)を導入。後の発展の「種」を育てる。 |
| 明治17年(1884) | 岸本利助(小松) | フランス式バッタン機を模造し、日本初の「輸出用羽二重(ハンカチ地)」を生産。 |
| 明治23年(1890) | 興産社の解散 | 閉鎖後、技術を習得した従業員が県内各地(金沢・小松・大聖寺等)へ散らばり、産地を形成。 |
| 明治33年(1900)頃 | 津田米次郎(金沢) | 「津田式力織機」を完成。手織りから機械織りへの転換を主導する。 |
| 明治後期 | 篠原藤平(大聖寺) | 厚手羽二重の技術や、織機を止める装置「チャンキリ」を開発。特許を公開し業界に貢献。 |
| 明治後期 | 吉岡藤左衛門(根上) 新田甚左衛門(小松) | 大規模工場の建設や精練事業の整備を行い、工業としての生産体制を確立。 |
| 明治32〜33年 | ー | 羽二重ブームと、その後の大暴落。投機的な「キヌ着たりコモ着たり」の時代。 |
| 大正時代(1914〜) | ー | 「ガチャ万景気」。第一次世界大戦を背景とした空前の好況。 |
| 大正6年(1917)頃 | ー | 人絹(レーヨン)織物業が急速に発展。絹・人絹の複合産地へと転換。 |
| 昭和6年(1931) | ー | 昭和恐慌による人絹相場の暴落。能美郡などの問屋が相次いで廃業する壊滅的打撃。 |
参考文献(石川百年史より)
| 記事のセクション | 出典・記述内容 |
|---|---|
| 1. 伝統の夜明け古代の伝説と藩政期の奨励 | 石川百年史 184ページ「石川県の機業についての古い記録によると、崇神天皇の御代、皇子大入杵命が御妹の沼名木入比咩命とともに鹿島郡の能登部郷に来られ、機織をして朝廷に献上…前田三代目の藩主利常のころ、すでに加賀絹は全国でも不動の地位を確保し…」より |
| 2. 明治維新と「興産社」士族授産と技術導入 | 石川百年史 192-193ページ「明治十三年…高岡町に設立されたのが興産社であった。…十九年にはそれまで長らく京都で西陣織にたずさわっていた松任の横井庄次郎を教師に招き…足利、西陣地方で使われている織機を改良したものを使って軽目羽二重を織り…」より, |
| 3. 世界へ羽ばたく万博と円中孫平 | 石川百年史 174ページ「(円中孫平は)八年には渡米してフィラデルフィア万国博審査官もつとめた。」より 石川百年史 614ページ(年表)「明治九年…円中孫平がフィラデルフィア博覧会に出品のため渡米、出品の県産物はいずれも一等賞牌を得た。」より |
| 3. 世界へ羽ばたく輸出羽二重の誕生 | 石川百年史 196ページ「輸出羽二重は明治十七年小松の岸本利助によって初めて織られたが…」より |
| 4. 技術革新の英雄たち津田米次郎 | 石川百年史 199-200ページ「津田米次郎こそ忘れてはならない…三十四年…ついに完成品となった。…これが現在も繊機の基礎をなしている津田式絹布力織機の誕生であった。」より |
| 4. 技術革新の英雄たち篠原藤平・吉岡ら | 石川百年史 190-191ページ「根上の吉岡藤左衛門…新田甚左衛門…大聖寺の篠原藤平…藤平は…チャンキリ機を発明し、これを公開して特許をとらなかった…」より, |
| 5. 狂乱の「ガチャ万」大戦景気と人絹 | 石川百年史 830ページ「ガチャと一機織れば万金がもうかったからである。いわゆる“ガチャ万銭時代”である。…絹人絹織り物業を見ても、明治四十一年会社数九社…」より |
| 6. 天国と地獄 昭和恐慌の打撃 | 石川百年史 833ページ「(昭和六年)十一月には人絹織物の大暴落で能美郡の織物問屋はバタバタと倒産した。…能美郡の九谷焼業者は三分の一値で投げ売りし…」より |
| 7. 関連産業の共鳴 金箔の独占 | 石川百年史 214-215ページ「京都、名古屋方面に飛ぶように売れ、次第に全国の市場を独占するようになっていった。…これは藩政時代から受け継がれていたモグリ箔打ちのたまものであった。」より |