寛政元年(1789年)数千頭の鹿が山から落りてくる大惨事。一晩で120cmの豪雪が招いた「鹿」の悲劇。加賀藩:能美・小松周辺の歴史。

寛政元年(1789年)数千頭の鹿が山から落りてくる大惨事。一晩で120cmの豪雪が招いた「鹿」の悲劇。加賀藩:能美・小松周辺の歴史。

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石川県の能美市や小松市を車で走っていると、深く静かな山並みが目に飛び込んできます。冬になれば、しんしんと降り積もる雪が街を白く染め上げ、そこには静謐で美しい日本の原風景が広がっています。

しかし、その穏やかな景色の中に点在する古い石碑や、ふとした歴史の断片を紐解くと、現代の私たちが想像もできないような凄惨な記憶が眠っていることがあります。

今回は、加賀藩の史料に残された、ある冬の「一夜」に起きた衝撃的な事件をご紹介します。

寛政元年(1789年)、一晩で数千の命が消えた

時は寛政元年(1789年)。加賀藩の山間部(能美・小松の山)を、未曾有の大雪が襲いました。記録によれば、わずか一晩で積雪は3尺から4尺(約90cm〜120cm)に達したといいます。

この急激な天候の変化に追い詰められたのは、人間だけではありませんでした。餌を求め、あるいは雪を逃れて、数千頭とも言われる鹿の群れが一斉に山を下ってきたのです。それが、後に語り継がれることとなる「鹿の大量殺戮」の始まりでした。

凄惨を極めた追い込み

『加賀藩史料』には、当時の状況が生々しく記されています。

  • 徹底的な追い込み: 突然の侵入者に、人々は槍や「鼠さし」と呼ばれる鋭利な道具を手に取りました。逃げる鹿たちは陸路だけでなく、湖や海へと追い詰められたといいます。
  • 逃げ場のない民家: 逃げ場を失った鹿たちは、民家の軒下に隠れ、あるものは家の中にまで逃げ込みました。しかし、そこでも逃げ切ることはできず、多くがその場で力尽き、倒れ伏しました。
  • 子供や女性までもが: 夕暮れ時になると鹿たちは疲弊しきっており、普段は狩りをしない子供や女性の手によってさえ捕らえられるほどだったと伝えられています。

通りという通り、小道という小道は鹿の死骸で溢れ、**「足の踏み場もないほどであった」**という記述から、その惨状の凄まじさが伝わってきます。

「姿妬しく整(声)の哀れを愛する風客は、殺さるゝ時なきさけぶを聞かば哀情しきりならん」 (鹿の美しい姿や悲しげな声を愛する風流人が、殺される時の叫び声を聞いたなら、どれほど哀れみの情を覚えたことだろうか)

史料に添えられたこの一文は、単なる駆除の記録を超え、当時の人々が感じたであろう筆舌に尽くしがたい悲哀を物語っています。

繰り返される獣との「戦い」の歴史

この鹿の事件は、決して孤立した出来事ではありませんでした。当時の加賀藩にとって、野生動物との衝突は、まさに生死を賭けた「戦い」だったのです。

安永5年(1776年)の記録には、能美郡の村役人(十村)たちが、猪や鹿による甚大な食害に耐えかね、藩に対して「猟師用の鉄砲を貸してほしい」と切実に願い出た記録が残っています。また、同年には猪を捕獲した者への褒美として米が与えられていました。その証拠として、当初は猪の「尾」を、後に「耳」を提出させていたという記述もあり、当時の切迫した状況が伺えます。

供養の跡「猪塚」

明和年間(1764年〜1772年)にも、数千頭の猪が狩られた記録があります。この時、あまりに多くの命を奪ったことから、人々はそれらを供養するために「猪塚」を建立しました。 「事終りて、其尾數千を焼きて塚となし、梵字を彫りて石碑を立て」と記されているように、当時の人々は戦いの末に奪った命に対し、深い畏怖と祈りを捧げていたのです。

結びに:雪害は人だけのものにあらず

現代を生きる私たちは、雪が降れば交通の乱れを案じ、動物が里に下りてくればニュースとして眺めます。しかし、この地に刻まれた歴史を振り返れば、「雪害」とは人間だけが被るものではなく、自然界のすべての命を巻き込む過酷なドラマであったことに気づかされます。

山中や村の端にひっそりと佇む動物たちの慰霊碑。それらは、厳しい自然の中で、人間と動物が必死に生き延びようとした、激動の歴史の証人なのかもしれません。

次に石川の美しい雪景色を見る時、その白さの下に眠る「沈黙の声」に、少しだけ耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

出典:『加賀藩史料 第十編』

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